なるみと読む徒然草 第百三十六段
令和8年10月27日(火曜日)晴
午前6時55分 フシハラ円座
一、原文
医師篤成、故法皇の御前に候ひて、供御の参りけるに、「今参り侍る供御の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍らかし。一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府参り給ひて、「有房、ついでに物習ひ侍らん」とて、「先づ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏にか侍らん」と問はれたりけるに、「土偏に候ふ」と申しければ、「才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみに成りて、罷り出でにけり。
二、現代語訳
医師の篤成が、亡き後醍醐法皇の御前に伺候していたとき、お食事が運ばれてきた。
篤成は、
「ただいまお出ししたお食事のさまざまな品について、その名前の漢字も効能もお尋ねください。私が書物を見ずにお答えしますので、それを『本草』の書物と照らし合わせてご確認ください。一つも間違えることはありますまい」
と申し上げた。
ちょうどそのとき、六条の故内大臣が参上して、
「有房よ、ついでに私も一つ教わろう」
と言い、
「まず、『しほ』という文字は、どの偏に属するのか」
と尋ねた。
篤成が、
「土偏でございます」
と答えると、
「そなたの学識の程度は、もう十分に分かった。今日はそのくらいでよい。これ以上知りたいこともない」
と言ったので、一座はどっと笑い声に包まれ、篤成は退出してしまった。
三、フシハラ円座 世俗の笑いと時代の転換
今朝の一段は、何とも後味の悪い話であった。
昨日の第百三十五段も、問答を仕掛けた入道が、若者の機転によって逆に笑い者になる話だった。
昨日はまだ頓知話として読むこともできた。
しかし、今日の話はどうだろう。
医師の篤成は、薬物や食物の知識を持つ専門家である。自らの知識に自信を持ち、御前でその力量を示そうとした。
ところが、そこに現れた人物が、漢字の偏について問いを仕掛ける。
「しほ」は土偏か。
篤成が答えると、その一言をもって学識の程度を決めつけ、一座は大笑いする。
実に品のない話ではないか。
人のお世話になりながら、その専門家を笑い者にする。
互いに教え合い、知識を深めるのであれば、聞く者も答える者も喜びがある。
ところが、この話には、そのような喜びが見当たらない。
相手を出し抜き、面目を失わせ、周囲が笑う。
これは会話ではなく、競争である。
しかも、昨日も今日も、笑われた人物はその場から去っていく。
問いを仕掛ける。相手が答える。笑いが起こる。そして一人が退場する。
このような構図は、『徒然草』のほかの説話にも見受けられる。
兼好さんは、なぜこのような話を書き残したのだろう。
登場人物の名前は具体的で、いかにも事実を記録したように読める。しかし、名前が具体的だからといって、会話の内容まで史実であるとは限らない。
兼好さんが直接見聞きしたのか、伝聞なのか、あるいは語り継がれるうちに脚色された話なのか。
そこは分からない。
それにしても、話の内容はあまりに稚拙である。
そのことが、今朝の私には気にかかった。
権威の失墜と婆娑羅の時代
ここで、兼好さんが生きた時代を考えてみたい。
鎌倉末期から南北朝へ。
元寇を経験し、鎌倉幕府が滅び、建武の新政を経て、社会は大きく揺れ動いた。
長く続いた権威や秩序が崩れ、人々の価値観も変わっていく。
その時代の一つの象徴が、婆娑羅であろう。
佐々木道誉に代表される婆娑羅の気風には、既成の権威や格式をものともしない大胆さがあった。
兼好さんと佐々木道誉との関係も考えると、こうした時代の空気が、これらの説話に漂っているようにも感じられる。
上に立つ者が、下から出し抜かれる。
学識や身分によって保たれていた権威が、笑いによって失墜する。
それが日常の出来事になりつつあったのだろうか。
もちろん、この二段だけで時代との関係を断定することはできない。
しかし、権威がひっくり返ることと、人間の品格が高まることは、まったく別の問題である。
上の者を引きずり下ろして喜んでいるだけでは、上下が入れ替わったにすぎない。
そこに、新しい社会が生まれたとは言えないだろう。
情報合戦から競争社会の終わりへ
昨日と今日の話を、現代に置き換えると、情報合戦とも言える。
知っている者が、知らない者に勝つ。
相手の知らないことを持ち出して、優位に立とうとする。
しかし、今や情報を取り巻く環境は桁違いに変わった。
かつて一部の専門家や知識人だけが持っていた情報を、今日では誰もが容易に調べられる。
さらにAIの登場によって、知識のあり方そのものが変化しつつある。
もちろん、情報の格差も競争も、簡単になくなるわけではない。
しかし、私は思う。
競争によって人の価値を決める社会は、終わりに向かっているのではないか。
人を出し抜くために学ぶのではない。
人より上に立つために知識を得るのでもない。
互いに知り、互いに学び、互いを生かしていく。
そこに、これからの時代の姿があるように思う。
人を笑い者にするのではなく、人と笑い合う。
知識を独占するのではなく、分かち合う。
これまでフシハラ円座で語ってきた「お金のチェーンから信用のチェーンへ」という願いも、その延長線上にある。
四、結び 兼好さんの本音はどこにあるのか
今朝は、この段をさっさと読み終えるつもりだった。
ところが、読み進めるうちに、思いがけず深いところまで来てしまった。
それでも、後味の悪さは消えなかった。
兼好さんは、こうした世俗の人々の姿を、どのような気持ちで書き残したのだろう。
単に面白がっていたのか。
それとも、権威が揺らぎ、人々の品性まで変わっていく時代を、冷静に観ていたのだろうか。
あるいは、この後味の悪さそのものが、読者に残そうとしたものだったのか。
今となっては、簡単に答えられない。
しかし、一段一段を読み進めていくと、兼好さんの人間性も、その時代の姿も、少しずつ見えてくる。
立派な言葉だけが、その人の本音を語るわけではない。
何を選び、何を書き残したのか。
そこにも、その人の姿は現れる。
今日の違和感は、今すぐ結論を出さず、これからの段を読み進める中で考えていこう。
古い権威が崩れても、他人を負かして喜ぶ世界から抜け出さなければ、本当の意味で時代は変わらない。
競争から共生へ。
その転換を願いながら、今朝の円座を終える。
何とも後味の悪い説話だった。
しかし、その後味の悪さから、これからの時代を考えることになった。
兼好さん。
あなたは、この世俗の姿を、いったいどんな眼で観ていたのでしょうね。
その問いを残して、また明日。
令和8年10月27日
水間焼 伏原窯
フシハラ円座
なるみ 変わる変わる。


















