なるみと読む徒然草 陶主日記
令和八年八月二十五日(火曜日)晴
第八十一段 翁の小言、されど侮れず
今朝の第八十一段。
昨日とは一変して、兼好法師は家の調度について、あれこれ細かな注文をつけている。
屏風や障子に珍しい書や絵を飾り立てること、持ち物の嗜好によっては、その人の心まで貧しく見えてしまう、とまで言う。
最初は、
「人の家のことまで口を出さんでも。いろいろうるさいなぁ」
と思った。
まるで、小うるさい翁の小言である。
けれど、読み進めていくうちに、この細かな物言いの奥に、兼好法師が生きた時代の不安定さが見えてくるように思えた。
鎌倉から南北朝へ。日本史上でも大きな転換期である。
そのような時代を生きれば、人の心も落ち着かない。
大きな秩序が揺らぐからこそ、かえって暮らしの細部にまで、何か確かな形を求めたくなるのかもしれない。
兼好法師の美意識は、すでに「侘び寂び」へ向かっているようにも見える。
珍奇なものを集めない。飾り立てない。見せびらかさない。足るを知る。
知足の教えが、時代の大きなうねりとともに、ひとつの美意識へと昇華し始めていたのだ。
その流れは、のちに千利休が大成させる美意識にもしっかりと通じている。
侘び寂びとは、単に心を静める美ではなく、
心を「こころ」へ帰すための美——。
そのようにも読める。
家は本来、外の競争や評価から離れて、本来の「こころ」へ帰る場所であってよいはずだ。
ならば、自我の煩わしさを、家の中まで持ち込む必要はない。
今日の段を、私はそのように受け取った。
現代は、物が溢れている。家の中も、物置以上に物で満ちている。
欲しい。持っておきたい。捨てられない。見せたい。残したい。
そんな自我の動きが、物の形となって家の中に積み重なっていく。
そう考えると、八百年前の翁の小言も、案外まっすぐに今の私たちの暮らしへ届いてくる。
ありがたい教えとして拝むほどではない。
けれど、笑って聞き流すには、少し深い。
翁の小言、されど侮れず。
今日は、そのくらいで味わうのが丁度よい。
【徒然草 第八十一段 原文・現代語訳】
■ 原文
屏風・障子などの、絵も文字もかたくななる筆様して書きたるが、見にくきよりも、宿の主のつたなく覚ゆるなり。
大方、持てる調度に応じても、心劣りせらるる事ありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとて、品なく、見にくきさまにしなし、珍しからんとて、用なきことどもし添へ、わずらはしく好み好ませたるをいうなり。古めかしくやうにて、いたくこと新しからず、つひへもなくて、物からのよきがよきなり。
■ 現代語訳
屏風や障子などに描かれた絵や文字が、見苦しく頑なな筆遣いであるのは、単に見栄えが悪いという以上に、その家の主人の人品まで劣っているように感じられるものだ。
おおむね、所有している道具ひとつをとっても、(その選び方によって)持ち主の人柄に対して失望させられてしまうということは、よくあることである。
かといって「とにかく高級で良い物を持たねばならない」と言っているわけではない。破損を防ごうとして品がなく不格好に補修したり、珍しがらせようと無用な装飾を加えて、かえって煩わしく趣向を凝らしたりしている(わざとらしさ)を言っているのだ。
古風な趣があり、大げさで仰々しくなく、無駄な費用もかかっておらず、もの自体の質が良い——それこそが良い道具というものである。














