なるみ随筆
普通が一番 ― 信の種を未来へ
令和八年十月十一日(日)
私は、新聞を読まない。テレビも見ない。
限りある人生の、これからの貴重な時間を学問に費やしたいと思っている。
『徒然草』を読み、『論語』を学び、『方丈記』を味わい、やがて『万葉集』へと進んでいく。
それは、ただ知識を増やすためではない。
人間とは何か。人はどのように生きるのか。そして、人が普通に生きるとはどういうことなのか。
その問いを続けたいのである。
普通が一番
母の言葉に「普通が一番」がある。
私は、この言葉を長く大切にしてきた。
しかし、この「一番」は、普通が最も優れているという意味ではない。
一番先に考える、という意味である。
社会がどう変わろうと、制度がどう変わろうと、経済や技術がどれほど発展しようと、まず人間が普通に生きることを考える。
時代によって「普通」の姿は変わる。
それでも、人が生まれ、人と交わり、働き、食べ、老い、生きていくという営みは続いていく。
その普遍的な人間の営みを第一に置く。
それが、私の「普通が一番」である。
人と間
若い頃、私は生きるための普遍的な哲学を仏教に求めた。
そして、この年齢まで生きてきて、人間というものを「人」と「間(ジンカン)」に分けて考えるようになった。
人は一人で生きてはいけない。
これが、私の根本にある問いである。
一人になって宇宙とつながる。
しかし、一人では生きていけない。
人は時間と空間の中に存在し、他者との関係の中で暮らしを営んでいる。
その「間」をどのように調和させていくのか。
しかも、人と人との関係は、時代によって変わっていく。
変わりゆく「間」に、先人たちが積み重ねてきた智慧を生かし、次の変化へつないでいく。
私は以前から、普通を考えることそのものが『論語』なのではないかと思ってきた。
孔子の言葉を、昔の社会秩序をそのまま守るために読むのではない。
人間がともに生きるための智慧として読み、今の暮らしの中で考え直していく。
そこに、私が『論語』を学ぶ意味がある。
信という土台
人間には、ある目的のために嘘をつき、その嘘を正当化してきた歴史がある。
この問題は、どこまで行っても簡単には解決しないだろう。
だからこそ、私は「信」という言葉を大切にしている。
信によって、私は生きてこられた。
信は、ある日突然できるものではない。
小さな約束を守る。丁寧に仕事をする。人と誠実に向き合う。
そんな何気ないことを、一日一日積み重ねていく。
その小さな営みが信の種を生み、やがて大きく育てるための土台となる。
茶碗屋として長く仕事を続けてきた私には、そのことが暮らしの実感としてある。
信は、一人だけで完成するものではない。
人と人との「間」に育つものである。
なるみの種
時代は変わる。
人と人との関係も変わる。
その変わる、変わるという営みを、私は「なるみ」と呼んでいる。
そして、小さな積み重ねから生まれる信の種を、**「なるみの種」**と呼んでいる。
何かを続けていれば、成功も失敗もある。
しかし、失敗はその時々の単なる結果である。
大切なのは、何をやり続けるかということだ。
何のために続けるのか。
何を次の時代へつなげていくのか。
その問いを失わず、暮らしの中で実践していく。
なるみとは、変化の中で信の種を育て、次の変化へつないでいく営みなのである。
AIとともに未来を創造する
私は、自分の暮らしを記録している。
朝の目覚め、古典を読む時間、工房での仕事、人との出会い、器を作る手の動き。
一見すると、どれも普通の一日である。
しかし、その一日こそが、生きているという事実なのである。
時間があり、空間がある。
その条件の中で人生を暮らし化していく。
そして、その暮らしを情報化していく。
私は、ここにAIの大きな可能性を見ている。
単にAIと共存するのではない。
AIとともに、未来を創造していくのである。
人間が生き、考え、働き、人と交わる。
AIは、その営みを記録し、整理し、つなぎ、後の人々が学び直せる形にする。
人間が何を問い、どのように考え、何を続けてきたのか。
成功だけでなく、迷いも、間違いも、変化も残していく。
もちろん、AIの言葉も誤ることがある。だからこそ事実を確かめ、訂正し、信頼できる記録として積み重ねる必要がある。
ここでも、土台になるのは「信」なのである。
後世の人とともに考える
私は、自分の記録が後世の人々の礎として活用されることを願っている。
しかし、完成した答えを残したいのではない。
後世の人も、一緒に考えられる場所を残したいのである。
孔子も、鴨長明も、兼好も、万葉びとも、それぞれの時代を生き、言葉を残した。
その言葉が、何百年、何千年という時間を越えて、今の私たちに届いている。
私もまた、この令和という時代に、一人の茶碗屋として生きている。
その普通の暮らしを記録する。
そして、未来の誰かがその記録を読み、自分たちの時代の「普通」を考える手掛かりにしてくれたなら、それでよい。
人は一人で生きてはいけない。
それは、今ここにいる人々との関係だけではない。
過去の人々の智慧を受け取り、未来の人々へ手渡していくこともまた、人と人との「間」を育てる営みなのだと思う。
普通が一番。
人が普通に生きることを、何よりも先に考える。
その暮らしの中で信の種をまき、育て、次の時代へつないでいく。
それが「なるみ」。
- そして、その小さな営みを記録し続けることが、私のこれからの生き方なのである。
今日もまた、普通の一日が始まり、過ぎていく。
その一日が、いつか誰かの未来につながることを願いながら。
水間焼 伏原窯 陶主
















