なるみと読む徒然草 第七十九段
令和八年八月二十三日(日曜日)晴れ
【第七十九段】
■ 原文
何事も入りたたぬさまをしたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔には言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあるけれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。
よくわきまへたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。
■ 現代語訳
どんな事についても、深く立ち入って知っているふりをしないのがよい。教養のある優れた人は、知っている事だからといって、それほど知ったかぶりの顔で話したりはしない。田舎から出てきたような人に限って、あらゆることに精通しているかのような口出しをするものだ。そのため、時には感心させられる面もあるにはあるが、自分自身でも鼻にかけて誇っている様子は、愚かで見苦しい。
本当によく理解している専門分野においてこそ、決して軽々しく口を開かず、問われない限りは語らないことこそが、本当に素晴らしいのだ。
今日の第七十九段は、読み始めた時と読み終えた時とで、私の中の景色が大きく変わる一段となった。
兼好は、よく知っている人ほど軽々しく口にせず、問われない限り多くを語らないものだと言う。最初は「自我を戒める佛道の教えなのだろうか」とも思った。
しかし、読み進めていくうちに少し違う感覚が湧いてきた。ここで語られているのは、むしろ都の作法、美意識、そして身の処し方ではないだろうか。
「片田舎よりさし出でたる人」が、何でも知っているかのように受け答えをする姿を、兼好はかなり辛辣に描いている。平たく言えば、田舎者を揶揄しているのだ。それを無理に佛道の「慎み」や「無我」にまで引き上げて読むと、かえってこの段が持つ生々しさを見失ってしまう。
都という狭い世間では、言葉ひとつ、振る舞いひとつがその人の品位や立場に直結する。知っていても知った顔をしない。出過ぎない。問われないことまで口にしない。これは信仰というより、都人の処世術であり、教養であり、美意識なのだろう。
そして、ここからひとつの大きな疑問が立ち上がった。
「兼好法師とは、いったい何者なのだろう」と。
法師であり、遁世者でありながら、彼は都の人間関係や作法、身分、評判に驚くほど敏感だ。しかもその文章は時に非常に辛辣で、人物を評し、良し悪しをきっぱりと言い切る。
佛道を歩む者の言葉として読むには、以前からどこか違和感があった。もし真の仏教者の眼差しであるなら、田舎者を笑うだけでは終わらないはずだ。愚かな振る舞いをする相手も、それを見て心を波立たせる自分も、ともに儚く、慈悲の眼差しの中に包み込まれるべきではないか。しかし今日の段には、そうした超越的な視点はあまり見られない。前面に出ているのは、どこまでも都人としての価値観だ。
そこで今日は、徒然草を読む立ち位置そのものを少し変えてみることにした。
兼好を、最初から智慧者とも、信仰者とも、人格者とも決めつけない。ただ一人の「書き手」として対峙する。
文章の上手な先生ではある。観察も鋭い。人間を見る目も確かだ。だが、それをそのまま「人格の高さ」と同一視する必要はないのではないか。
知識人ゆえの矛盾と、智慧者然とした文体を持つ一人の書き手。
そうした適切な距離感で読む方が、今の私にはずっと自然に思える。
これまで「古典だから敬って読まなければならない」「兼好法師だから佛道として受け止めなければならない」と、知らず知らずのうちに肩に力が入っていたのかもしれない。けれど、古典だからといってすべてをありがたく受け取る必要はないのだ。違和感があれば違和感のまま置けばいい。疑問があれば疑えばいい。ただ一段ごとに、そこに立ち現れる兼好の姿を見つめればいい。
今日、私の中にその「隙間」が生まれた。そしてその隙間が、古典を読む自由を生んでくれた。
これからは、一筋縄ではいかない兼好という人物を、まっすぐ観察しながら読み進めていこうと思う。佛道の段は佛道として、都の作法は作法として、人物評や政治の匂いがする場面はそのままに。一つの枠に閉じ込めないことで、より生々しく躍動する『徒然草』が立ち上がってくるはずだ。
第七十九段。長年抱えていた固い結び目が、ふっとほどけたような気がしている。ここからまた、新しい『徒然草』との付き合いが始まる。














