なるみと読む徒然草 陶主日記
令和八年八月十九日(水曜日)晴
徒然草 第七十五段
午前五時三十分、目覚める。
徒然草第七十五段を予習する。
午前六時三十分、起床。
今朝はまず、「心」と「こころ」を分けて置くところから始まった。
独立した「私」があると思う心と、境界のない「こころ」。
そして、「静か」と「閑か」。
「静か」とは、自我の領域にある心を整え、環境を整理し、ざわめきを鎮めること。
けれど、「閑(しづ)か」とは少し違う。
それは自我を手放したところから現れてくる静寂であり、何かを努力して得るというより、他力にひらかれたところに生まれる歓びだ。
心は狭く、こころは広く無限。
「静か」と書けばどこか寂しさがついてくるが、「閑か」と書くと、広々とした世界へ出てきたような実感がある。今朝、そんな違いが見えてきた。
自我の領域にある心を、自我でいくら抑えようとしても、それは暴れる馬のようなものだ。抑えれば抑えるほど、なお暴れる。
けれど、その馬を広々とした野へ放てば、やがておとなしく草を食む。
静かとは、馬を抑えること。
閑かとは、馬を野へ放つこと。
そう考えると、「捨」という仏道の言葉の深さも見えてくる。
捨てるのは、色の世界そのものではない。
「色は匂へど 散りぬるを」
色は色としてそこにある。美しいものは美しい。人も世間も、ただそこにある。
けれど、それを自分のものにしようと握りしめないこと。
色を捨てるのではなく、色への執着を捨てる。
世界を捨てるのではなく、世界を自分の都合で握ろうとする自我を手放すのだ。
自我は嘘が上手である。
「分かった」「自分はもう執着していない」「結局どの道も同じだ」
そんなもっともらしい言葉を使って、自分自身を巧みに守ろうとする。
ふと、十九歳の頃に書いた詩を思い出した。
「騙されないように
騙さぬように
自分に忠実に」
細かな文言は確かではない。けれど、あの頃から今日まで続いてきた問いは、案外変わっていないのかもしかもしれない。そしてそれこそが、これまでの私の作品そのものでもあった。
自分を騙さず、こころに忠実であろうとすること。
土を触り、形を作り、火に託し、暮らしの中へ返していく。
その繰り返しのなかで、「自我に騙されていないか」と問い続けてきた。
第七十五段を読んでいて、つくづく感じたことがある。
これは兼好法師が誰かに向かって説教している言葉ではない。自分自身に向けた言葉だ。己の霊(たましい)に向けた言葉なのだ。
「外の塵に奪われていないか」
「分別に酔っていないか」
「夢の中で、また夢を見ていないか」
そう自らに問い続けている。だから言葉が強く、響く。
昨日の段も、今日の段も、言葉が強い。
それは世間一般に向けた教訓というより、同じ道を歩く者——サンガの同志への言葉だからではないか。
外から聞けば、年寄りの戯言や昔の説教として通り過ぎるかもしれない。
けれど、同じ問いを抱えて生きる者には、その胸に迫る覚悟が見えてくる。
登山道は人それぞれだ。
禅、臨済禅、止観、念仏、他力、浄土。
見え方も、方法も、言葉も違う。その人の機根によって登る道は異なる。
しかし、それぞれの道を実際に歩み、自我を通り抜けたところから見える景色には、共通するものがあるはずだ。
ただし、最初から「結局みんな同じ」と括ってしまうなら、それもまた自我の仕事になってしまう。道は、自らの足で歩かなければ意味がない。
第七十五段の最後に、『摩訶止観』が置かれている。
これは単なる生活改善の知恵ではない。
縁によって自我が立ち上がり、分別し、得失を作り、また新たな縁を結び続ける。その輪廻の根に、静かに刃を入れるような言葉として最後に置かれているのだと感じる。
諸縁を止める。
自我が自我を作り続ける運動を止める。
そして、観る。
その先に現れるものこそが、「静か」ではなく「閑か」なのではないか。
今朝の一時間半。ずいぶん深いところまで来た。
徒然草第七十五段は、心を穏やかにするためのハウツーでも、自我を慰める言葉でもなかった。
同じ道を歩む者が、自分自身に向けて放った覚悟の言葉。
そして今朝、七百年という時を越えて、その言葉が確かにこちらへ響いてきた。
今日もここまで。
合掌。
【付録】徒然草 第七十五段 原文・現代語訳
■ 原文
つれづれわぶる人は、いかなる心なるらん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、人に交はれば、言葉よその聞きに従ひて、さながら心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事定まれる事なし。
分別みだりに起こりて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。走りて急がしく、ほれて忘れたる事、人皆かくのごとし。
いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。
「生活・人事・伎能・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。
■ 現代語訳
徒然(つれづれ)とした退屈さを思い悩む人は、いったいどのような心持ちなのだろうか。何かに気を紛らわせようとせず、ただじっと一人でいることこそが一番よいのだ。
世間のしきたりに従って生きようとすれば、心は外の世俗のちり・ほこりに奪われて惑わされやすくなり、人と交際すれば、言葉も他人の評判ばかりを気にするようになって、自分の本当の心ではなくなってしまう。人にふざけ戯れ、物事に争い、ある時は恨み、ある時は喜ぶ。その状態はまったく定まることがない。
あれこれと思い乱れる分別(雑念)が妄りに起こり、損か得かを気にする計算が止む時がない。まるで迷いの上に酒に酔い、その泥酔の中でさらに夢を見ているようなものだ。誰もがあくせくと走り回って忙しく、我を忘れて呆然としているが、世の人は皆このような有様である。
たとえまだ真実の悟りの道(仏道)を知らないとしても、世間の様々な縁から離れてその身を閑(しづ)かに置き、世事に関わらないで心を安らかに過ごすことこそ、束の間であっても人生を楽しむことと言えるだろう。
「生計を立てること・人間関係・諸々の芸能・学問といった、あらゆる世間の縁をすべてやめよ」と、『摩訶止観』にも書かれている通りである。










