なるみと読む徒然草
第八十二段
令和8年8月26日(水曜日)晴れ
今朝の第八十二段は、最初から気の合う者同士が物の趣味について語り合っているように感じた。
「羅の表紙は、すぐ傷むから困る」
すると頓阿が、
「羅はほつれて、螺鈿の軸は貝が落ちてからこそよい」
と言う。
そこから話は弾んでいく。
欠けたものがよい。
古びたものがよい。
すべて整い切ったものより、どこか仕残したものの方が面白い。
まるで今でもよくある、友人同士の連帯と同調の確認である。
「そうそう」
「あれもそうだ」
「これもそうだ」
そんな円座の高揚の中から、一つの言葉が生まれていく。
連歌もまた、そのようなものだったのだろう。
ひとりの言葉を、別の者が受け、少しずらし、また次へ渡す。
その連なりの中で、一人では出なかった景色が立ち上がる。
今日の段も、兼好ひとりの大思想というより、教養ある仲間たちの場で生まれた感覚を、兼好が拾い上げたものなのかもしれない。
そう思って読み返すと、
「徒然なるままに」
と、最初から書いてあるではないか、と兼好に言われたような気がした。
こちらが少し気負い込み過ぎていた。
すべてを深い思想として読もうとせず、世間話、見聞、趣味談義、友人との語らい、その中からふと立ち上がる言葉として読む。
そうすると、今まで合点のいかなかったところが、ずいぶん自然に見えてくる。
ただ、今日の段は、それだけでは終わらない。
友人たちの軽い雑談が興に乗っていくうちに、
「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり」
と、大きなところへ届いてしまう。
欠けていること。
整い切らないこと。
仕残してあること。
それが、単なる趣味の話から、この世そのものの不完全さへと触れていく。
ここが、いみじくも面白い。
当時は、世情そのものが不安定であった。
旧い秩序が崩れ、新しい力が現れ、婆娑羅のような華美と勢いが世を覆っていく。
兼好は、その流れに乗る人ではなかった。
むしろ、崩れていく世界を見て不安を覚え、嘆き、小言を言いながら、自分の足場を確かめようとしていたのではないかと思う。
だから、
欠けていくことも悪くない。
古びていくことも美しい。
すべて整わなくてもよい。
そう言わなければ、受け止めきれない時代でもあったのかもしれない。
仏教的な無常観も、そこに一つの言葉を与えたのだろう。
崩れる。
失う。
移ろう。
それでも、この世を肯定して生きていかなくてはならない。
友人たちが集まり、
「この感じ、分かるよね」
と確かめ合う。
そこには、美意識の共有だけでなく、崩れていく時代をともに生きるための連帯もあったのかもしれない。
そのことを考えていると、利休と秀吉のことを思った。
秀吉の黄金。
利休の侘び。
華美と削ぎ落とし。
誇示と沈黙。
権力と美。
利休の侘び寂びは、単なる質素の美ではない。
若い頃、私は利休の死について考えた時、
侘び寂びとは、命を賭する美の結晶ではないか
と思った。
利休は、美を語ったのではなく、美の側に自分の身を置いた。
兼好は、そこまでは行かない。
彼のこころは、世の移ろいの中で揺れ続ける。
ある時は仏教を語り、
ある時は世間を嘆き、
ある時は作法を論じ、
ある時は趣味の良し悪しを言う。
定まり切らない。
だから角度を変えれば、
教養のある小言爺さん
にも見えてくる。
しかし、その小言爺さんが、よく見て、よく聞いて、よく書いた。
だから八百年後の私たちが、まだその円座に座っている。
今日の第八十二段は、
欠けたるものの美を語る段であると同時に、
崩れていく時代を、仲間とともに言葉で受け止めようとした段
と読めた。
そして何より、
「徒然なるままに」
という、この書物の最初の言葉へ、今朝あらためて帰って来た。
まだまだ続く『徒然草』。
兼好を高い壇に置かず、
ひとりの教養人として、
時には小言爺さんとして、
これからも円座に迎えて読んでいきたい。














