原文
書写の上人は、法華読誦の功積もりて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られたるに、豆殻を焚きて豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己ならしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するのこな」と云ひけり。焚かるゝ豆殻のばらくと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるゝはいかがばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくナ恨み給ひそ」とぞ聞こえける。
なるみと読む徒然草 第六十九段
書写の上人は、法華経を読誦する功を積み、六根清浄にかなった人であった。
今日の段は、この冒頭の「法華経」と「六根清浄」が、そのまま一段全体の世界を表しているように思う。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意。
人は、この六つを通して、この世を受け取り、認識している。
同じ山を見ても、見る人によって違う。また、ただ見るのと、静かに観るのとでも違う。
世界そのものが違うのではなく、こちらのこころのありようによって、現れてくる世界が違う。
六根が清らかになるとは、単に感覚が鋭くなることではなく、自我の濁りが静まり、物事をそのまま受け取れるようになることなのだろう。
そうして読むと、豆と豆殻の言い合いも、ただの奇談には見えなくなる。
この段の下敷きには、かつて中国の曹植が詠んだ「七歩詩」※がある。兄弟の骨肉の争いを「豆を煮るに豆殻を焚く」と例え、人間の業や対立の悲劇を告発した切実な詩だ。
しかし兼好法師の手にかかると、その痛烈な対立のドラマは一変する。
一方は鍋の中で煮られ、一方は火の中で焼かれている。
豆は豆殻を責め、豆殻は「自分も好きで焼かれているのではない」と応える。
もとは同じ一つのものから生まれた両者だが、そこにあるのは激しい憎悪ではなく、お互いのどうにもならない立場への哀愁と諦念だ。
どちらかが正しく、どちらかが悪いという話ではない。
それぞれが、それぞれの場所で苦しんでいる。
ひとつなのに、ばらばらに見える。一つの出来事を見ても、見る人によって、すべてが違う。
しかし、それを「人はみな同じ世界を共有している」と概念でまとめてしまわず、そのままを、そのままに静かに観る。
そこに、平等性智という言葉が静かに響いてくる。
違いを消して平等にするのではない。豆は豆、豆殻は豆殻、山は山、人は人。
違いをそのままにして、その奥にある等しさを観る。
実相をそのままに受け取るこの視線は、日本の風土によく馴染んでいる。
山川草木悉皆成仏。
山も川も草木も、人間から切り離された無機質なものではなく、それぞれに命を宿し、祈りの世界に通じている。
時代によって言葉は変わる。
神仏習合。命。いのち。祈り。いのり。
言葉は変わっても、その底に流れている感覚は、静かにつながっている。
兼好法師は、それを大きな教説として語らない。
豆と豆殻の声を、そのまま置く。
裁かず、決めつけず、違いを消さず、そのままを観る。
そこに、兼好法師の中道の実践があるように思う。
そして最後には、豆は美味しく煮え、私たちは満足してそれを頂く。
煮られること。焼かれること。苦しむこと。働くこと。恵みとなること。そして、それを頂くこと。
そのすべてが、一つの流れの中にある。
善悪に切り分ける前から、世界はすでに動き、成っている。
その静かな成り行きを、そのまま受け取る。
なるみ。
今日の第六十九段は、豆と豆殻の小さな物語から、六根清浄、こころ、平等性智、いのち、祈り、そして中道へと、静かに世界がひらいていった。
※「七歩詩」
煮豆持作羹 漉鼓以為汁
萁在釜下燃 豆在釜中泣
本是同根生 相煎何太急
魏の皇帝・曹丕が、才能あふれる弟の曹植を妬み、「七歩歩く間に詩を作れ。できなければ処刑する」と命じました。
そこで曹植は、豆と豆殻は同じ根から生まれた兄弟なのに、なぜこんなにも激しく煮詰めるのかと、兄弟の骨肉の争いを嘆いて詠み、命拾いをしたという故事です。














