なるみと読む徒然草
第百二十五段 人間(ジンカン)を観る
【原文】
人の物を問ひたるに、我も知らざりし事をば、やがて人に問ひ返し、同じ所を聞き合ひて、我が知りたる事をば、さも知らぬ由にて、なほなほ問ひ聞くこそ、をこがましけれ。
知りたる事を、さも知らぬ顔にて、人に問ひ聞かむやうにする人、いと見苦し。されど、己が知りたる事を、人の問ひたるに、我も知らずと答へて、後に人の知らぬ所を語り出でたるは、いとわろし。
人の心を知らず、我が心をも知らず、ただ世の中の人のする事をまねびて、何事にもつき従ひたるこそ、あさましけれ。
【現代語訳】
人から何かを尋ねられたとき、自分も知らないことなら、すぐに相手へ問い返し、同じところを尋ね合うのは、愚かなことである。
また、自分が知っていることを、いかにも知らないような顔をして、人に尋ねるように振る舞う人も、たいへん見苦しい。けれども、自分が知っていることを人から尋ねられたとき、「私も知りません」と答えておきながら、あとになって、その人の知らないことを得意げに語り出すのは、さらに悪いことである。
人の心も知らず、自分の心も知らず、ただ世間の人がしていることをまねし、何事にもつき従っている姿は、まことに情けないものである。
令和8年10月16日(金曜日)晴
フシハラ円座 午前7時07分開座
一、兼好さんと人間模様
今日の第百二十五段は、法話を聞いて涙を流す人々の姿から始まった。
ありがたい説法に感動し、皆が涙する。
ところが、一人の素っ頓狂な発言によって、その場の空気が一変する。
人間とは、何とも面白いものである。
泣く人がいる。笑う人がいる。座を白けさせる人もいる。
そこには、それぞれの感情があり、それぞれの思いがある。
私は、兼好さんがこうした人々を、上から見下ろしているとも、下から仰ぎ見ているとも思わない。
ただ、そこにある人間の姿を観ている。
これが佛道であり、『徒然草』を貫く一つの姿勢ではないだろうか。
二、人という姿を頂いて
私は、人は「ひと」というパッケージに入って、「ジンカン」を生きる時間を頂いているのだと思っている。
世間は人がつくる。
集団意識もまた、人々がつくり出すものである。
人は時に、その集団の感情や価値観に巻き込まれ、自分自身を見失ってしまう。
だから瞑想がある。
集団から距離を取り、一個の人に戻り、宇宙意識とつながる。
しかし、そこにとどまるのではない。
無我とは、生かされているという意識をもって、ジンカンの世間を精一杯生きること。
禅の十牛図も、求道の歩みを経て、最後には人々の暮らす世間へと帰ってくる。
そこに、求道心から菩提心へと開かれていく姿を見る。
三、普通が一番 ― 一服のお茶に宇宙がある
お茶を一服頂く。
そこには、お茶を入れる人がいる。
お茶を育て、作ってくれた人がいる。
お湯呑を作った人もいる。
商いをして、お茶やお湯呑を届けてくれた人もいる。
数えきれない人々の営みが、今、この一服のお茶の中にある。
そして、お茶を頂き、去っていく。
何でもない日常の出来事である。
しかし、これほど多くの縁が重なり、一服のお茶を頂けることは、考えてみれば、あり得ないほど有難い。
私は、そこに光を感じて生きている。
世界をつくるのは、ただ、その人自身なのだ。
宇宙というと、とてつもなく大きなものを想像するが、一つのお茶碗にも宇宙は存在している。
その有難さを、特別な感動としてではなく、普通に感じられる人でありたい。
これが私の言う「くらし」であり、「普通が一番」である。
そして、ここに「なるみの種」がある。
四、顛倒夢想(てんどうむそう)の世間
今日の『徒然草』に戻れば、そこには自己を表そうとする人や、自分の思い込みにとらわれた人々の姿が見える。
『般若心経』にいう「顛倒夢想」である。
人は、自分のつくり出した世界にとらわれ、逆立ちしたような姿で苦しんでいる。
けれども、そんな人々を批判する必要はない。
自分もまた、そのジンカンに生きている一人なのだから。
その問いへの答えの一つが、
喫茶去。
ただ、お茶を一服頂く。
何かを獲得しようとするのでもなく、特別な境地を求めるのでもない。
今ここにある暮らしを生きる。
五、兼好さんの隣に座る
『徒然草』を、悟った調子で読む必要はない。
兼好さんの立ち位置を共有し、同じ時代に生きた人々を、一緒に観ればよい。
七百年前にも、泣く人がいて、笑う人がいて、素っ頓狂なことを言う人がいた。
今の私たちと、ちっとも変わらない。
兼好さんの隣に座って、その人間模様を眺める。
それが「なるみと読む徒然草」であり、フシハラ円座なのである。
今日は、しづかさんも随分と賑やかだった。
何度も「喫茶去」と言いながら、ちっとも静かにならない。
これもまた、何とも微笑ましい一幕であった。
今日の結び
人それぞれ。
それぞれで、人間(ジンカン)が成り立っている。
上目線でも、下目線でもなく、ただ観ている。
その中に自分も いて、頂いた時間を精一杯生きている。
一服のお茶にも宇宙があり、何気ない日常の中に光がある。
その光を感じながら、普通に暮らしていく。
それが私の「くらし」。
そして、そこに蒔かれているのが「なるみの種」なのである。
普通が一番。
令和8年10月16日
水間焼 伏原窯
フシハラ円座

















