なるみと読む徒然草
第六十七段
令和8年8月11日(火曜日)晴
原文
賀茂の岩本、橋本は、業平、実方なり。
人の常に言ひ紛へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、
「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚の、
月をめで花を眺めし古の
やさしき人はここにありはら
と詠み給へるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか御存知などもこそ候はめ」
と、いと恭しく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられけり。まことにやんごとなき誉ありて、人の口にある歌多し。作文・詩序など、いみじく書く人なり。
今日の輪読
予習で何度も読んだ第六十七段でしたが、初めはなかなか場面が立ち上がってきませんでした。
「賀茂」と聞いて、まず下鴨神社の糺の森、その小川の景色が浮かびました。しかし読み進めるうちに、舞台は上賀茂へと移っていきます。
賀茂別雷神社――上賀茂神社。
古い賀茂の信仰を今に伝える場所です。
若い頃に何度か参詣した記憶を辿ると、下鴨とはまた違った、古風な趣が残っています。
そこから今日の円座に、いくつもの言葉が現れてきました。
賀茂。
水。
歌。
陸奥。
辺境。
清め。
神事。
鎮魂。
賀茂川と高野川は出町で合流し、鴨川となって都を流れていきます。水は京都の暮らしを支える生命線であると同時に、神事の始まりに人と場を清めるものでもあります。
水は流れ、巡り、また帰ってくる。
そこに「御前の水にて書きて、手向けられけり」とあります。
歌を水辺で書き、神前に手向ける。
この一節から、今日の段の景色が急に見えてきました。
都は、火事、地震、洪水、疫病など、人の力ではどうにもならない出来事に幾度も見舞われてきました。そのたびに人の心は揺れます。都は制度だけでなく、人々の心によっても成り立っている。だからこそ、神を祀り、穢れを清め、霊を鎮め、都の安寧を祈ることは、暮らしとも政治とも離れたものではありませんでした。
そして、この段には業平、実方、吉水和尚、今出川院近衛と、人から人へ受け渡されてきた歌の記憶があります。
亡き人を忘れず、土地にその面影をとどめ、歌を手向ける。
今日、私たちの円座では、この第六十七段を、
「鎮魂の一段」
として受け取りました。
なるみ
古典は、急いで答えを出そうとすると、かえって姿を隠します。
今朝もそうでした。
賀茂から水へ。
水から神事へ。
神事から歌へ。
歌から鎮魂へ。
ひとつの言葉が次の言葉を呼び、七百年前の短い文章の向こうから、古い都の風景が少しずつ現れてきました。
水は清め、流し、巡らせる。
歌は、人の思いを時の向こうへ運ぶ。
人は去っても、ことばは残り、土地に宿り、また次の人へと渡ってゆく。
それもまた、一つの循環なのでしょう。
賀茂、水、歌、鎮魂。
今日はその流れのほとりに、しばらく座っていた朝でした。
急がなくてもいい賀茂(かも)。
ハハハ。
そんな一言まで生まれた、今日の円座でした。
















