水間焼伏原


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先客万来

なるみ庵

朝から、連日のM氏の力作を窯出ししました。良い感じに仕上がりました。

お昼に鶏屋のHさんが来訪されました。この方はもう作品(七輪)が出来上がっており、次の作品作りの為の土を陶主に分けてもらいに来られました。

いつも何かお土産に持って来てくださり、今日は呑まなくなった陶主に酔わないビール、特別なお酢(名前失念)、ヤングコーンをいただきました。

陶主が公民館の陶芸クラブへ行き、しばらくしてから、N氏来訪。久々に葛城山へ行って来られたそうで、お水をいただきました。

リュックに6リットルの水を入れて山から来られて疲れたと言われてたのでリュックを持たせてもらいました。

手で提げると大変重いのですが、背中に背負うと身体の一部になり重さを感じませんでした。こんなリュック欲しいですね。

私は先日の小鳥の話をし、雨が降らなかったら、日曜に雨山に登る話をしました。

そんな中、携帯に電話が入り、昼のクラブのTさんから絵付を見て欲しいと要請が入りました。しばらくして、壺を持って来られました。

いつも細かな線で絵付をされるTさんですが、今回は線が少し弱く、理由を伺いますと、体調が良くなく集中が続かないとのことでした。Tさんの筆跡を活かした仕上げを試みることにします。

夕方、M氏登場。出来上がった壺をみて、ニコニコ。

お喜び頂けましたようで嬉しいです。

仕事は、陶主が菊形向付削り。森本は貝形小向付の色盛、水仙箸置の色盛です。

今日は先客万来でした。公民館祭がすぐそこまで来ています。

作品がつなぐ三十五年

なるみ庵

昨日の松図壺が焼き上がり、お昼からM氏が来られました。

絵付の続きです。松笠の濃淡を整えていきます。

松図壺の絵付け②
松笠に青が入ったことで、幹に太さが欲しくなり、茶色の洋絵の具で加筆しました。

明日の焼き上がりが楽しみです。

窯に詰めてから、M氏と楽茶碗の話になりました。

土曜日にお稽古で来られるYさんは、公民館が出来た当初からの生徒さんです。平成三年(1991年)からなので三十五年の歩みになります。

当時、陶主も三十代で、野焼きや楽焼、穴窯と様々な陶芸の面白さ、奥深さをクラブ員の皆さんと堪能されています。

そこでM氏が「Yさんの楽とか昔の作品、見てみたいなぁ」と言われました。

水間寺の脇に展示が出来るスペースがあるそうで、「そこでYさんの展示会をすれば見れるよね、手伝うし」と話が膨らんでます。

確かに今まで作られた作品の数は、群を抜いて沢山お持ちです。いい機会、またいい記念になりそうです。

松笠に青を盛る

なるみ庵

今日は公民館陶芸クラブの窯出しでした。焼き上がった松図壺を持って、M氏が来訪されました。

出してから直ぐにこちらへ来られたそうで「おにぎりを買って来た」とM氏。丁度、我々も昼食を食べはじめたところだったので、一緒に食卓を囲む。お料理もされるM氏と糠漬けや昆布の佃煮の話で盛り上がりました。

壺は良い感じに焼き上がっていました。

さぁ、上絵付です。先ず、絵の具を乳鉢ですり、壺の絵付に。

松図壺の絵付け

松笠に青(緑)の絵の具を盛っていきます。よく集中されて描かれていました。あと数回、重ね盛りが必要とお伝えして窯に入れました。

仕事は、陶主が菊形向付の削り仕上げ。私は貝形小向付の重ね盛りです。少し涼しくなって来たからか、陶主の膝に痛みが出てきたので心配です。

粘葉本和漢朗詠集 納涼②

なるみ庵

粘葉本和漢朗詠集 納涼 その二

露簟清焚迎夜滑 風襟蕭灑先秋涼

(※焚『林と火の間にカンムリがあります』が瑩ではないかとも言われています。)

粘葉本和漢朗詠集 納涼

 

ー意味ー

露に濡れた籐の敷物は清々しく、夜になるとひんやり滑らかに。風が襟元をさわやかに吹き抜け、秋よりも先に涼しさを感じる。先の詩が視覚の涼しさなら、こちらは触覚と感覚の涼しさです。肌に触れる敷物の冷たさ、襟元を吹き抜ける風——夏の夜の涼を体で感じている詩です。

彼岸にも入り、すっかり涼しくなりました。ほんの少し前まで暑かったのにと思います。

窯元日々雑感 徒然草 第九十七段

なるみと読む徒然草 第九十七段

――深く入って、サラリと出る

令和八年九月十一日(金)雨。

午前五時十八分、目覚め。布団の中で『徒然草』第九十七段を予習し、六時二十二分から今日の輪読を始めた。

第九十七段は、短い。

その物に付きて、その物を費やし損ふ物、数を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

兼好は、あるものに付いて、そのものを損なうものは数知れずあると言う。

身には虱。

家には鼠。

国には賊。

私は昔から、こういうものを総称して「天敵」と呼んでいる。猫と鼠のようなものだ。私たちには猫も鼠も見え、その関係も見えている。しかし当の猫と鼠には、私たちが見るような「猫と鼠」という関係の全体像は見えていない。

昔、冗談半分に、

「この地球の天敵は重力や」

と言っていたことがある(笑)。存在するということは、それを成立させるものと同時に、それを制約し、損なうものをも抱えているということなのだろう。

ところが兼好は、後半でひょいと文章をひっくり返す。

小人には財。

君子には仁義。

僧には法。

ここから語られるのは、外にいる天敵ではない。人間の内に生まれる煩悩である。財が悪いのではない。仁義が悪いのでも、仏法が悪いのでもない。それを握り締め、執着したとき、自分を支えるはずのものが、自分を損なうものにもなる。

「外なる天敵」と「内なる天敵」。

兼好はそれらを前後に並べ、後半を逆説で返してみせる。どこか『荘子』を思わせる書き方でもある。

しかも兼好は歌人でもある。虱・鼠・賊、そして財・仁義・法。短い文章ながら、言葉の配置もよく吟味されている。

ここで面白くなって、

「兼好自身も、うまい文章を書こうという天敵にやられているのではないか」

とまで入り込んだ。危ない、危ない(笑)。そこまで言わなくてもよい。

「流石、兼好さん。なかなか吟味の効いた文章、書かはりなすわ。」

それで十分なのである。

深く読んでも、読みを握り締めない。

分かったことを、全部言おうとしない。

深く入って、サラリと出る。

心にも身体にも、それが良い。

うちとこでは、それを、

「かろみ」

と言うてます。

今日の第九十七段も、深く入りました。けれど最後は、サラリと。

兼好さん、よう出来た短文ですなぁ。

今日は、それくらいでよろしいようです。