窯元日々雑感 徒然草 第百二十九段

窯元日々雑感 徒然草 第百二十九段

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

なるみと読む徒然草

 

第百二十九段 慈悲から唯心へ

令和8年10月20日(火曜日)晴れ

午前6時44分 フシハラ円座

 

一、原文

顔回は、志、人に労を施さじとなり。

すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。

また、いときなき子を賺し、威し、言ひ恥かしめて興ずる事あり。

おとなき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身に沁みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切なるべし。

これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。

おとなき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄なれども、誰か実有の相に著せざる。

身をやぶるよりも、心を傷ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。

病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。

薬を飲みて汗を求むるには、験なきことあれども、一旦恥ぢ、恐るることあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。

凌雲の額を書きて白頭の人と成りし例、なきにあらず。

 

二、現代語訳

孔子の弟子、顔回の志は、人に苦労をかけまいということであった。

およそ人を苦しめたり、物を虐げたりしてはならない。身分の低い人であっても、その志を奪ってはならない。

また、幼い子供をだましたり、脅したり、恥ずかしい思いをさせて面白がることがある。

大人は本当のことではないから大したことではないと思うかもしれない。しかし幼い子供の心には深く染み込み、恐ろしく、恥ずかしく、情けない思いは、実に切実なものとなる。

そのように人を苦しめて楽しむことは、慈悲の心ではない。

分別の十分でない人の喜怒哀楽も、仏教的に見れば実体のないものである。しかし、いったい誰がそれを現実のものとして執着せずにいられるだろうか。

身体を傷つけることよりも、心を傷つけることの方が、人を深く害する場合がある。

病も多くは心から受けるもので、外から来る病は少ない。

薬を飲んでも汗が出ないことがあるのに、ひとたび恥ずかしい思いや恐ろしい思いをすれば、必ず汗が流れる。

これも心の働きによるものだと知るべきである。

凌雲閣の額の文字を書いたために、心労から白髪の老人のようになったという例も、ないわけではない。

※現代語訳は原文の趣旨に沿ったものです。病と心の関係については、兼好の時代の理解として読んでいます。

 

三、フシハラ円座での対話と考察

慈悲から唯心へ

昨日の第百二十八段は、慈悲について考えた。

そして今日、兼好さんは顔回の言葉から始めて、人間の心の世界へと歩みを進めている。

「人に労を施さじ」

自分のことは、極力自分で事を成す。

これは人の助けを受けないということではない。自分がなすべきことを、自分の暮らしの中で引き受けるという姿勢である。

儒教は道徳として語られることが多い。

しかし、形を整えるための規則としてではなく、心に通じる実践的な思想として捉えていたい。

兼好さんは、顔回の言葉から、人の心を傷つけることの重大さを語り、さらに心が身体にまで影響することを示している。

昨日の慈悲から今日の唯心へ。

ここには、一つの自然な流れがある。

ジンカンに佛の道が通っている。

佛の道は、日常の暮らしから離れたところにあるのではない。

人と出会い、仕事をし、喜び、悲しみ、時には苦労しながら生きている。

その市井の人々の営みの中に、佛の道が通っているのである。

因縁は佛様から来て、佛に返す

私は、この世を因縁の解消の世界と捉えている。

自分から積極的に縁を結ぼうとは思わない。

因縁は佛様から来て、佛に返していくだけである。

できれば、一人静かに居たい。

以前にも書いた、

「唯仏与仏、乃能究尽」

この言葉も、知識として意味を知るだけではなく、では、いかに生きるか、ということである。

人間の暮らしの中で、いただいた縁をどう生きていくか。

その実践こそが大切なのである。

変わる変わる

一日日が昇り、一日が始まる。

この実感を大切にしたい。

まだそれを感じられない人には、そっと言葉を添えて置く。

その積み重ねが深い知識となり、未来を創っていくのだろう。

変わる変わる。

失敗が成功の種となり、

悲しみが喜びの種となり。

変わる変わる。

心が右往左往し、

哀しんだり、喜んだり。

人間だもの。

生きる喜びも悲しみも、

丸ごと生きています。

これが「なるみ」である。

人は死にません

今日の円座の終わりに、マルセル・デュシャンの墓碑銘を思い出した。

「それに、死ぬのはいつも他人ばかり」

人は、自分の死を認識することはできない。

死を考え、想像することはできても、死んだ自分がその死を認識することはできない。

私たちが経験しているのは、いつも生きている今なのである。

変わる変わる。

生も死も見つめながら、今日という一日を生きている。

 

四、結び ― 日日の暮らしを生きる

兼好さんは、顔回の言葉から始めて、人間の心の働きを、実に身近な出来事によって描いている。

そこには、人間の弱さも、悲しみも、慈悲もある。

私が論語を学びたいと思ったのも、このような文章を書いてみたいからである。

儒教も仏教も、知識として蓄えるだけではなく、日日の暮らしの中で生きてこそ意味がある。

一人静かに居ながら、いただいた縁を生きる。

そして、また日が昇る。

今日も生きています。

変わる変わる。

なるみゆく、なるみゆく。

 

令和8年10月20日

水間焼 伏原窯

フシハラ円座 しづかと共に

なるみと読む徒然草‐第一話

この記事の関連キーワード