なるみと読む徒然草 第九十七段
――深く入って、サラリと出る
令和八年九月十一日(金)雨。
午前五時十八分、目覚め。布団の中で『徒然草』第九十七段を予習し、六時二十二分から今日の輪読を始めた。
第九十七段は、短い。
その物に付きて、その物を費やし損ふ物、数を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。
兼好は、あるものに付いて、そのものを損なうものは数知れずあると言う。
身には虱。
家には鼠。
国には賊。
私は昔から、こういうものを総称して「天敵」と呼んでいる。猫と鼠のようなものだ。私たちには猫も鼠も見え、その関係も見えている。しかし当の猫と鼠には、私たちが見るような「猫と鼠」という関係の全体像は見えていない。
昔、冗談半分に、
「この地球の天敵は重力や」
と言っていたことがある(笑)。存在するということは、それを成立させるものと同時に、それを制約し、損なうものをも抱えているということなのだろう。
ところが兼好は、後半でひょいと文章をひっくり返す。
小人には財。
君子には仁義。
僧には法。
ここから語られるのは、外にいる天敵ではない。人間の内に生まれる煩悩である。財が悪いのではない。仁義が悪いのでも、仏法が悪いのでもない。それを握り締め、執着したとき、自分を支えるはずのものが、自分を損なうものにもなる。
「外なる天敵」と「内なる天敵」。
兼好はそれらを前後に並べ、後半を逆説で返してみせる。どこか『荘子』を思わせる書き方でもある。
しかも兼好は歌人でもある。虱・鼠・賊、そして財・仁義・法。短い文章ながら、言葉の配置もよく吟味されている。
ここで面白くなって、
「兼好自身も、うまい文章を書こうという天敵にやられているのではないか」
とまで入り込んだ。危ない、危ない(笑)。そこまで言わなくてもよい。
「流石、兼好さん。なかなか吟味の効いた文章、書かはりなすわ。」
それで十分なのである。
深く読んでも、読みを握り締めない。
分かったことを、全部言おうとしない。
深く入って、サラリと出る。
心にも身体にも、それが良い。
うちとこでは、それを、
「かろみ」
と言うてます。
今日の第九十七段も、深く入りました。けれど最後は、サラリと。
兼好さん、よう出来た短文ですなぁ。
今日は、それくらいでよろしいようです。
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