窯元日々雑感 徒然草 第九十五段

窯元日々雑感 徒然草 第九十五段

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なるみと読む徒然草 陶主日記

第九十五段

令和8年9月9日(水曜日)雨

昨日に続き、故実についての一段である。

兼好は、箱の緒をどちらに付けるべきか、有職の人に尋ねている。答えは面白い。

「両説なれば、いづれも難なし。」

二つのやり方があり、どちらでも差し支えないという。なんとも細かな話である。

しかし、歳を重ねると、こうした細かなことを書き留めておきたくなる気持ちが、よく分かる。細かなことが重要になるというより、細かなところにこそ、暮らし全体が宿っていることが見えてくるのである。

今日、この段を読みながら、工房で作った「玄猪香合」を思い出した。亥の子餅を配る箱を包んだ「玄猪包」――その姿を写した仁清の香合があり、私もその写しを作ったことがある。

玄猪香合

写すにあたって、仁清の香合の形を見るだけでは足りなかった。もとの玄猪包が、いったいどのように包まれたものなのか。それを調べ、包み方を知った上で、初めて形を考えることができた。

昔の人にとっては当たり前の小さな作法だったのだろう。しかし、その小さなことが書き残されていなければ、後世の私たちには分からない。ここに、故実の大切さがある。

細部は、些細ではない。細部こそ、文化が宿る場所である。

包む、結ぶ、贈る、供える、盛る――日本では、こうした日々の営みが長い時間の中で型となり、その型が磨かれて美となり、伝えられてきた。暮らしをかたちにして、次へ伝えてゆく。それもまた、日本の在り方であり、日本の美が形成されてきた一つの道なのだと思う。

そして、誰もが通り過ぎてしまいそうな細かなところに、「ここには何かある」と感じて立ち止まる。私はそれを、よく「センス」と呼ぶ。

センスとは、単に洒落ていることでも、器用に美しいものを作ることでもない。何を大切なものとして感じ取れるか、である。兼好が「箱の緒をどちらに付けるか」という小さなことをわざわざ尋ね、書き残したところにも、その感覚が光っている。

六百年以上の時を経て、それを読む私たちが、その小さな記録から当時の暮らしを感じ取っている。茶碗屋もまた、古い暮らしの中に残された細部を拾い、それを器というかたちにして、次へ手渡してゆく。

こころをかたちに。

第九十五段は短い。しかし、その短い文章の細部にこそ、日本の暮らしと美を考える大切な「こころの場所」がありました。

――なるみと読む徒然草 第九十五段 了

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