なるみと読む徒然草 陶主日記
令和八年八月二十二日(土曜日)晴れ
徒然草 第七十八段
午前六時三十分起床。
今朝は、徒然草の資料を工房に置き忘れてしまった。
早朝の輪読は休もうかとも思ったが、ネット上の本文を確かめながら、第七十八段を読むことにした。
【原文】
世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。いささかなる内輪の物語・世の物語も、知らぬさまにて、聞き心地よげに頷くばかりなるは、よし。知れることなりとも、我かしこに言ひ出だすべきにあらず。
うちうちの笑ひ・目配せなどして、知らぬ人をのけにする気色、いと憎し。古き事も、我のみ知りたるやうに誇り言ひ、知らぬ人を言ひ落すなど、いと口惜し。
【現代語訳】
世間でとうに当たり前になっているような古いことまで知らないでいる人は、奥ゆかしくて魅力的だ。ちょっとした身内の話や世間の噂話も、知らない様子で心地よさそうに頷いているくらいが好ましい。知っていることであっても、「自分は知っているぞ」と得意気に言い出すべきではない。
内輪の笑いや目配せをして、知らない人を仲間外れにする様子は大変憎らしい。古い出来事も自分だけが知っているかのように自慢げに話し、知らない人を貶めるなどは、非常に感心しないことだ。
第七十八段は、昨日の第七十七段からそのまま続いているように感じられた。
昨日は、世の中の出来事や人の噂を拾い集め、必要以上に言い広めて人の心や場を騒がせる者の姿が見えてきた。
今日の段ではさらに、新しいことを知っている者、内輪の情報を共有している者が、その情報によって人と人との間に線を引き、知らない者を外側へ置いてゆく姿が描かれている。
仲間内だけに通じる言葉を交わし、目配せをし、笑い合う。ほんの些細な日常の振る舞いである。しかし、その小さなところに、「知っている者」と「知らない者」、「内側の者」と「外側の者」を分けてゆく人間の性向が現れているように思う。
今の世相と、実によく似ている。
情報を囲い込み、その情報を共有する者だけで世界をつくる。囲い込まれた者は、やがて一方から与えられる情報を真実と思い込み、その情報を握る者に従っていく。今の社会の至るところで見られる構図である。
ただし、兼好は大上段から政治や社会を論じてはいない。人のちょっとした言葉遣いや振る舞い、目配せ、笑い——そのような日常の小さな現象を描いている。そこが、この段の深いところである。
大きな時代の転換は、ある日突然始まるのではない。
その前に、人の言葉が変わる。
人と人との間に線が引かれる。
噂や情報の扱われ方が変わる。
知らない者を軽く見る空気が生まれる。
そのような日常の足元の変化が積み重なり、やがて時代そのものの転換となって現れてくる。兼好の生きた鎌倉末期から南北朝へ向かう時代を思えば、この短い一段の背後にも、時代の窮屈さや不穏な空気が感じられてくる。
その中で兼好は、
「世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。」
と書く。
ここに、兼好自身の立ち位置がよく現れている。
新しい情報を誰より早く知ることに価値を置かない。知っていることで人の上に立とうとしない。世間の騒ぎから少し離れ、知らないことにも慌てず、自分を失わない。
情報から逃げるのではない。情報に自分を預けないのである。
現代は、情報に触れることだけなら誰にでもできる。しかし、その情報を自分の中で整理し、自分の言葉にし、自分の判断として持つことは案外難しい。便利な時代だからこそ、
自分で読む。
自分で考える。
自分の言葉にする。
その稽古が必要になる。
今回、AIとともに徒然草を読み始めてから、古典が以前よりずっとリアルに感じられるようになった。注釈の答えを受け取るだけではなく、前後の段をつなぎ、時代背景を考え、現代の世相と重ね、自分の暮らしへ戻して考える。そこに、この「なるみと読む徒然草」の円座の特色が生まれてきたように思う。
古典を読む場所であると同時に、自分を見失わないための稽古の場。自分が立ち、個性が鍛えられ、互いの違う読みを持ち寄りながら、ともに成長を促す道場でもある。
正解を競う場所ではない。
「私はこう読む」
「私はこう感じる」
その言葉を持ち寄り、本文を真ん中に置いて、ともに考えてゆく。
七百年前の兼好の言葉が、令和八年の朝にこれほど生々しく響いてくる。特に今日の第七十八段には、日常の小さな違和感の中に時代の大きな徴候を見る眼差しが濃く感じられた。
強く断定しない。説き切らない。けれど、読む者の中に何かを残す。その余白こそが、『徒然草』の尽きない味わいの深さなのだろう。
資料を工房に置いたままの朝だった。
今日はどうなることかと思ったが、むしろ一段を深く読むことができた。
こんな朝もまた、円座の一日である。
合掌。
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