窯元日々雑感 徒然草 第七十七段

窯元日々雑感 徒然草 第七十七段

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令和8年8月21日(金曜日)晴残暑続く

​午前5時50分目覚め

​徒然草第七十七段

なるみと読む徒然草 陶主日記

令和八年八月二十一日(金曜日)晴れ

徒然草 第七十七段

午前五時五十分、目覚め。

昨日に続き、今日も聖法師の話である。

第七十六段では、聖法師の言葉を、私は「こころを静めるための言葉」として読んだ。

見たまま、聞いたままを受け取り、そこに余計な判断を差し挟まない。そんな佛道の姿まで深く読んでいた。

ところが、第七十七段へ進むと、少し景色が変わってきた。

どうも、この二、三段に登場する聖法師たちは、信仰の世界に静かに生きる人というより、かなり世俗の近くにいる。権門に出入りし、人の噂や事情をよく知り、それをまた人へ伝えてゆく。

今の言葉で言えば、情報を集め、流し、人々の見方に影響を与える位置にいる人たちである。

そこには、信仰というよりも、世俗社会における情報の働きが見えてくる。

昨日から感じていた世相の緊迫感が、今日はさらに強くなった。

そして、その聖法師たちを見ている兼好自身も、やはり世俗から遠く離れた人ではない。

宮廷や中央社会の事情をよく知り、人の動き、評判、作法、権力、噂、情報の流れを細かく見ている。

私は最初から、兼好という人にはどこか「ジャーナル」のような感覚があると思っていた。

ただ、最初からその言葉を当ててしまうと、『徒然草』を限定して読んでしまうように思い、控えてきた。

しかし、ここまで読み進めると、その言葉も自然に共有できるようになった。

兼好は、ただ思いついたことを書き留めた人ではない。

日々の出来事、人の言動、社会の空気をかなり綿密に手元へ残し、それを選び、並べ、文章として世に返している。

単なるメモではない。

日記であり、記録であり、同時代を見つめる知識人の仕事である。

そして何より、兼好は「書き残す」という行為そのものが、すでに情報になることを知っていたのではないか。

だからこそ、あの独特の短い文体の中に、人物だけではなく、時代そのものが浮かび上がってくる。

ここまで来て、兼好像は少し変わった。

私はもっと、隠者然とした人であってほしかった。

世相を知りながら、そこから少し離れ、道との距離を見せてくれる人。

風に流すように、世の出来事を眺める人。

そんな兼好を、どこかで期待していた。

しかし、今日の段を読むと、彼は思っていた以上に世相の近くにいる。

かなり積極的に人を見、情報を拾い、それを書き残している。

正直に言えば、

少し残念だった。

「やっぱりそうか」

という感覚でもあった。

けれど、それは兼好が悪いわけではない。

こちらが勝手に思い描いていた兼好像である。

昨日は、兼好の言葉を自分の「こころ」の側へ引き寄せ、深く読んだ。

今日は、それが一転した。

そのことで初めて、

兼好と私との距離が見えた。

人は、自分と同じものを他者にも求めてしまう。

同じ道を歩き、同じところを見ていてほしいと思ってしまう。

けれど、それも夢のまた夢。

違って当然である。

兼好は兼好。

私は私。

同じでなくてよい。

近づいたり、離れたりしながら読む。

共鳴するときもあれば、違和感を覚えるときもある。

その距離まで含めて、古典を読むということなのだろう。

今日は、徒然草そのものよりも、

読む者と書いた者との距離

を教えてもらったように思う。

それもまた、輪読の大切な一日であった。

​【原文】

世中に、その比、人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞き重なること、うけ入れぬ。

ことには、片ほとなりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけん覚ゆるまで、言ひ散らすめる。

​【現代語訳】

世間で、その当時、人々が持てあまして話題にしている事柄について、ある人がその内情をよく知っていて、人にも語り聞かせ、こちらの問いかけや聞き取りに何度も答えてくれるのは、すんなりと受け入れられる。

しかし特に、中途半端な修行者である聖法師などが、世間の人の噂話や出来事について、まるで自分のことのように探し求めて聞き出し、「どうしてこれほどまで知っているのだろう」と思われるほど吹聴して回る様子は、何とも見苦しく思われる。

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