令和八年八月二十日(木曜日)曇
午前五時に目覚め、徒然草の予習。
六時三十分起床。
今日は『徒然草』第七十六段を読む。
昨日の第七十五段は、珍しく力のこもった文章だった。
内面から噴き出すような厳しさがあり、ある種の決意のようなものが感じられた。
そして今日は、その続きである。
【原文:第七十六段】
世の覚え華やかなるあたりに、噯気も喜びもありて、人多く行き交ふ只中に、聖・法師の交りて、言ひ入り、たひずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。
【現代語訳】
世間の評判が高く華やかなお宅で、お悔やみやお祝いごとがあって人が多く行き交うそのただ中に、出家者や法師が交じり込んで、案内を乞うたり門口に立ちすくんだりしているのは、「そこまでしなくてもよいのに」と思われる。
そうするだけの正当な理由があるにしても、法師というものは、世俗の人々とは疎遠でいるのがよいのだ。
冒頭に現れる、
「さらずとも」
という一言が、どうにも気になった。
「そこまでせずともよかろうに」
そんな意味合いの、柔らかな言葉である。
けれど、これは単なる他人への批評ではない。
ましてや、法師という立場を責めたてる言葉でもないはずだ。
兼好法師自身、世間を完全に離れた人ではなかった。
中央とのつながりを持ち、社会の秩序の中に身を置いていた人である。
人は完全に社会と繋がりを断って暮らすことは難しい。
法師もまた、法師という立場で社会に関わり生きている。
釈尊でさえ、托鉢を通じて人々との関わりの中で生きておられた。
そう考えると、問題は「身の置きどころ」そのものではない。
執着の問題。
すなわち、心の問題である。
第七十五段が兼好法師自身の内面の吐露であったとするなら、今日の第七十六段は、世間に映し出された自分自身の姿なのだろう。
華やかな場所に交じる法師を見て、
「さらずとも」
と思う。
けれど、その法師は決して他人ではない。
誰がこの法師を責められようか。
おのれ自身が、まさにこの法師なのではないか。
そう気づいた時、胸が痛む。
これは単なる自戒というより、
自分自身の姿を目の当たりに突きつけられた痛みである。
仏道を歩む者は、他者をただの「他者」として見ない。
目の前の出来事も、他人の立ち振る舞いも、
すべて自己の世界の映し出しとして受け取っていく。
昨日は自らの内面に自分を見た。
今日は世間という鏡の中に自分を見た。
それこそが、道を歩む者の眼差しなのだと思う。
共に泣き、
共に笑い、
共に奮い立ち、
共に鎮まる。
人は「人間(ジンカン)」の中で生きている。
その人間界から、ひとりの「人」へ帰っていく工程の一つに、隠遁という形があるのかもしれない。
ただし、隠遁とは社会を捨てることではない。
社会の中に身を置きながら、
執着に呑まれず、
ただこころを観る。
兼好法師は、悟りきった完成者ではない。
世間の中に居ながら、何度も自分を見つめ直し、何度も心を動かされ、その都度、言葉によって心を鎮めていった人なのだろう。
見たまま。
聞いたまま。
そこに過剰な善悪の判断を加えず、
揺れ動いたこころを静めるために言葉を紡ぐ。
だからこそ、その省察は
「さらずとも」
という一言に静かに収まるのだ。
第七十五段の力み。
第七十六段の痛み。
この二つを並べて読むと、兼好法師という一人の人間が、ずいぶん近くに感じられる。
そして釈尊もまた、はるか遠くの完成者としてではなく、今も共に道を歩む尊いサンガの友として、恐れ多くも私の中に立ち現れてくる。
完成された者をただ仰ぎ見るのではない。
共に歩む。
その道すがら、己の内面にも、世間の姿にも、自分自身が繰り返し現れてくる。
今日の第七十六段は、そのことを静かに教えてくれた。
「さらずとも」
実に短い一言である。
けれど、その一言の奥には、
己を見せられた者の痛みと、
揺れるこころを静かに鎮めようとする深閑とした余白がある。
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