令和八年八月十八日(火曜日)曇
午前五時五十分起床
なるみと読む徒然草 第七十四段
今朝は『徒然草』第七十四段を読む。
兼好法師は、人々が蟻のように集まり、東西南北へと忙しく行き交い、名利を求め、暮らしを営む姿を大きな視点から眺めている。
人は老い、やがて死ぬ。形あるものは変わり、留まるものはない。
いわゆる無常観の一段である。
けれど、今朝読んでいて思った。
兼好は、無常そのものを悲観しているのではない。無常はただ、この世の理としてそこにある。
哀れなのは、その無常を知らず、常住を願い、そこに心を住まわせてしまう人の姿なのだ。
人は、今日と同じ明日が来ると思う。持っているものが続くと思う。まだ時間があると思う。そして、いつしかその思いの中に住みついてしまう。
私はそれを「哀れの住人」と呼びたい。
しかし兼好法師は、その人々を見下してはいない。
この第七十四段は、かなり大上段に構えたところから始まる。博学の言葉をもって無常を説き、人間の営みを俯瞰している。
けれど最後まで読むと、そこに人を裁く冷たさがない。むしろ、常住を願ってしまう人の心を自分もよく知っている。自分もまた、同じ無常の中を生きるひとりである。
そのことを知っているから、最後には人の傍らへ降りてくる。共に泣き、共に笑い、友の側に静かに寄り添っている。
ここに、兼好法師の慈しみがある。
無常を知るとは、人から離れることではない。無常を知ったからこそ、人の傍らへ近づいていく。
そこに仏道の遊行がある。
十牛図で言えば、悟ったから終わりではない。巷へ帰り、人々と共に暮らす。「入鄽垂手」の世界である。
私は日頃、「普通が一番」と言っている。
この「普通」も、ただ世間に合わせるという意味ではない。欲にも偏らず、禁欲にも偏らず、名利にも、特別であろうとする思いにも執着しない。その中道から見えてくる暮らしである。
兼好法師は経済社会から少し身を引き、仮屋に住み、『徒然草』を書いた。日本には、西行、芭蕉、良寛をはじめ、仮屋を旅し、風流を生きた人が数多くいる。
けれど私は、今の経済社会の中で生きている。注文を受け、器を作り、売り、工房を維持し、暮らしを営む。
経済の外へ出るのではなく、経済の中に居ながら、そこに心を奪われ過ぎない。それもまた、今の時代の中道なのだと思う。
最近、私は「心」と「こころ」を分けて考えることが多くなった。
心は動く。欲し、迷い、不安になり、執着する。
けれど、もう少し深いところに、静かな「こころ」がある。
本当の棲家は、外に建てた家ではなく、こころが安定したところなのだろう。
物質世界は「砂上の楼閣」とも言われる。
家も、財産も、地位も、身体も、器も、いつかは変わり、壊れていく。
だからといって、物質を否定するのではない。物質には住む。けれど、物質をこころの棲家にはしない。
私は土で生きている。
土をこね、形にし、乾かし、削り、窯で焼き、さらに絵や釉を施していく。ひとつの器が出来上がるまでには、人が思う以上に長い時間がかかる。
属性や完成への思いを重ね、ようやく出来上がった器も、使われ、欠け、やがて壊れていく。
壊れると知りながら、手間を惜しまず作る。
無常だから雑にするのではない。無常だからこそ、丁寧に作る。
私は、この時間の世界で修行させてもらっているのだと思う。
良寛と馬之助の話も、今朝ふと思い出した。
良寛は多くを語らない。沈黙が雄弁に語る。語り尽くしたから涙が出るのではない。言葉の向こうで、こころとこころが語り合ったから涙が出る。
共に泣き、共に笑い、ただ静かに寄り添う。そこで初めて、こころが震える。
考えてみれば、
「旅するうつわ」も、
「なるみの種」も、
すべて同じところから生まれてきたのだと思う。
器は作り手の元を離れ、人の暮らしへ旅をする。言葉もどちらも、何かを強く押しつけるためではない。
ただ、暮らしの傍らに静かに在る。
土の形となって旅をするもの。言の葉となって旅をするもの。その根には、同じ「こころ」が流れている。
今朝の第七十四段は、無常観から始まった。
けれど読み進めるうちに、無常を知ることとは、人から離れることではなく、むしろ人の傍らへ帰っていくことなのだと感じた。
大上段に無常を説きながら、最後には共に涙する兼好法師がいる。
そこに、この段の慈しみがある。
その慈しみに触れたとき、こころが静かに震える。
今日も、そこから始めることにする。
【徒然草 第七十四段】
原文
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る。高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕べに寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速やかにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。
惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。
現代語訳
(人々が)まるで蟻のように群がり集まって、東西へと急ぎ、南北へと駆け走っている。身分の高い者もいれば、低い者もいる。年老いた者もいれば、若い者もいる。向かう場所があり、帰る家がある。夜になれば眠り、朝になれば起きる。このようにして日々営んでいることは、いったい何のためであろうか。命を貪り、利益ばかりを追い求めて、休まる時がない。
そうやって身体を養生して、結局のところ何を待っているというのだろうか。行き着く果ては、ただ「老い」と「死」があるだけである。その老いと死のやって来る速さは凄まじく、一刹那の間も留まることがない。これを待っている間に、一体どのような楽しみがあるというのだろうか(いや、楽しみなどない)。
迷いの最中にある人は、この老いと死を恐れようとしない。名誉や利益に心が溺れてしまい、自らの死期が近づいていることに思いを馳せないからである。一方で愚かな人は、また(土壇場になって)これを悲しむ。この世が永遠に変わらないものであるかのように思い込み、すべてのものは移り変わるという「無常の理」を知らないからである。
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