窯元日々雑感 徒然草 第七十一段

窯元日々雑感 徒然草 第七十一段

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令和8年8月15日(土曜日)晴れ

午前6時30分 起床

​おはようございます。

今朝は『徒然草』第七十一段を開きました。

​人の名前を聞いただけでその顔が浮かぶように思えたり、昔聞いた話をまるで自分が見てきたことのように感じたり、今目の前で起きていることが、以前にも同じようにあった気がしたりする。

現代でいう「デジャ・ヴュ(既視感)」のような心の働きです。

​兼好法師は、日常の中にふと現れる心の不思議を、理屈で説明しようとはしません。

ただ、「何とも不思議なことだ」と、その現象の前に静かに立ち尽くしているようです。

​そこから今朝の想いは、「心」と「こころ」へと広がっていきました。

​昔の人も、今の私たちと同じ「こころ」を生きていました。

暮らしも、社会も、言葉も違う。けれど、懐かしさを感じ、ふと不思議に思い、何かを知っているように感じる心の動きは、七百年という時を超えても変わりません。

古典を読むとき、かつて生きた人の心が、今を生きる私たちの中で再び動き始めます。

​兼好法師は深く思索する人ですが、その文章は堅苦しい思想書のようではありません。

まるで日日の玄関先で、「こんなことがありますよね」と立ち話をしているかのようです。

深いことを、決して深そうに書かない。

けれど、その玄関先から一歩足を踏み入れると、いつの間にか「人間の内面」という深い山の中に立っている。それこそが『徒然草』の面白さなのだと感じます。

​私は「心」と「こころ」を、少し分けて捉えています。

「心」は、感情や思考、記憶など、言葉として捉えられる働き。

一方の「こころ」は、もっと奥深くにあるもの。まだ言葉にならないもの、理屈になる前に感じ取っている領域です。

​「こころに生きる人」とは、今日一日を、一つの「こころの世界」として味わい生きている人ではないでしょうか。

​私にとって「こころをかたちに」は、単なる仕事の理念にとどまりません。暮らしそのものです。

土に触れ、器をつくり、人と出会い、祈り、古典を読み、筆を持つ。

それらを個別の出来事としてではなく、一つの「こころの世界」の現れとして生きる。だからこそ、私は兼好法師の言葉に強く共感するのだと思います。

​今日、もう一つ心に浮かんだ言葉は「つながる」でした。

​つながりとは、後から無理に作り出すものではありません。

こころに生きていると、もともとそこにあったつながりに、自然と気づいていきます。

過去と今。人と人。朝読んだ言葉と、その日の暮らし。

そして、まだ見ぬ未来とも。

​未来はただ時間の先で待っているのではなく、未来の可能性が、いまの自分を静かに形づくっているようにも思えます。

私たちは常に、未来を選択する場所に立っています。

その選択は、どこまでも自由であるべきです。

自分のこころで受け取り、選び、その選択を自ら引き受けて生きる。

「今」という場所は、未来からの呼びかけと、私たちの選択が交差する点なのかもしれません。

​兼好法師の時代には、玄関先の立ち話のように語られていた「こころの不思議」。

令和の今、同じ問いを出発点にしながら、私たちはさらに一歩踏み込んで語ることができます。

「自分は何を選び、どのような未来を生き、どのように自分自身を創っていくのか」と。

​けれど、すべての出発点は変わりません。

日日の小さな出来事の前で、「不思議だな」と立ち止まること。

そこから、豊かな「こころの世界」が開かれていきます。

​今日は午後6時から9時までお習字の教室へ向かいます。

朝、徒然草を読み「こころ」を深め、夜は筆をとって「かたち」にする。

今日という一日もまた、綺麗にひとつへとつながっています。

​こころに生きる。

つながりに気づく。

そして、こころをかたちにする。

​第七十一段から、静かで豊かな一日が始まりました。

 

徒然草』第七十一段

​【原文】

名を聞くより、やがて、面影は推し測らるる心地するを、見る時は、また、かねて思いつるまの顔したる人こそなけれ。

昔物語を聞きても、このごろの人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思いよせらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

また、いかなる折ぞ、ただ今、人の言う事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、昔覚えたる心地のするは。いかがは知りて、思い出でねど、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思うにや。

​【現代語訳】

人の名前を聞いただけで、すぐにその人の顔立ちがなんとなく頭に思い浮かぶ気がするものだが、実際に会って見ると、あらかじめ想像していた通りの顔をした人など、一人もいないものだ。

また、昔の物語を聞いていても、「いまの時代のあの人の家の、あのあたりでの出来事だったのだろうな」と想像されたり、登場人物も「いま見ているあの人のような感じかな」と重ね合わせて思われたりするのだが、これは誰でも同じように感じることなのだろうか。

さらに、どういう折にか、たった今、人が話していることも、目に映っている光景も、自分の心の中で「ずっと昔にも経験したことがある」という気がするのは、なぜなのだろう。どういうわけか自分でもはっきりとは思い出せないのだが、たしかに以前あったことのように感じられるのは、私だけがこのように思うのだろうか。

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