なるみと読む徒然草
第百三十七段(続)― 葵祭からジンカンへ
令和8年11月1日(日曜日)晴れ
フシハラ円座
■ 一、原文
兼好法師『徒然草』第百三十七段より
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
よろづの事も、始め・終りこそをかしけれ。
(中略)
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り、立ち寄り、あからめもせずまぼりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。
さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。「見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝潰るるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見洩さじとまぼりて、「とあり、かかり」と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。ただ、物をのみ見んとするなるべし。
都の人のゆゆしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。
暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
■ 二、現代語訳
花は満開のときだけを、月は曇りなく照っているときだけを見るものだろうか。いや、そうではない。
何事も、その始まりと終わりにこそ趣がある。
(中略)
教養ある人は、ひたすら風流好みに見えるようなことはせず、興じる様子も控えめである。ところが片田舎の人は、何事にも色濃く興じる。花の下には身をよじるように寄って行き、目も離さずに見つめ、酒を飲み、連歌をして、しまいには大きな枝を無造作に折り取ってしまう。泉には手足を浸し、雪には降り立って足跡をつけ、あらゆるものを、離れて眺めるということがない。
そうした人が祭りを見る様子は、まことに珍しいものであった。「行列が来るまでには、ずいぶん間がある。それまでは桟敷はいらない」と言って、奥の部屋で酒を飲み、物を食べ、囲碁や双六などをして遊び、桟敷には人を置いておく。「お通りです」と言う声がすると、めいめい肝をつぶすほど驚いて、争って走り上がり、落ちそうになるまで簾を張り出して押し合い、一つも見逃すまいと見つめ、「ああだ、こうだ」と一つ一つ言い立てる。行列が通り過ぎてしまうと、「また次に通るまで」と言って下りてしまう。ただ、物を見ることだけが目当てなのであろう。
都の人で重々しい身分の人は、居眠りをして、ろくに見もしない。若く身分の低い者は、宮仕えで立ち働き、人の後ろに控えている者は、見苦しく前へ出ることもなく、無理をしてまで見ようとする人もいない。
どことなく葵を掛け渡して優美な風情のなか、まだ夜が明けきらないうちに、人目を忍んで寄せてくる車が気になり、あれか、これかと見当をつけていると、牛飼や下部などの見知った顔もある。趣深くも、華やかにも、さまざまに行き交う様子は、見ていて退屈しない。
日が暮れるころには、ずらりと並べていた車も、所狭しと居並んでいた人も、どちらへ行ってしまったのだろうか。ほどなく数も稀になり、車の混雑も済んでしまうと、簾や畳も取り払われ、目の前がさびしげになってゆく。そのさまにこそ、世の移り変わりの例も思い知られて、しみじみとした趣がある。
この大路の一日を見届けてこそ、祭りを見たと言えるのだ。
■ 三、フシハラ円座の考察
【祭りは、終わって初めて祭りになる】
十一月一日。今朝は正法寺の早朝座禅会に参加し、午前七時四十二分に帰宅した。十一月最初の円座は、葵祭のくだりから始まった。
兼好さんは、行列そのものだけを描いているのではない。夜明け前に人目を忍んで車を寄せる人々、桟敷に争って駆け上がる片田舎の人々。祭りを取り巻くさまざまな人間の姿を観察している。そこには兼好さん自身の好悪や価値観もあるだろう。しかし私には、目の前に現れる人間の姿を、見たまま、感じたままに書き留めようとする眼が興味深い。
そして、祭りは終わる。人々が去り、道具が片付けられ、大路は日常の姿に戻っていく。
私は思う。祭りは、後片付けをし、日常に帰って初めて、体験したことになるのではないか。一瞬の夢のように儚く消えゆく姿を、自分の中に刻む。そこに、辛うじて生きている自己を観る。この繊細な感覚があってこそ、感応道交し、生命を感じて生きることができるのだろう。
【変わる変わる】
無常という言葉がある。私流に言えば、「変わる変わる」である。
花は咲き、散る。祭りは始まり、終わる。人は出会い、別れる。留まることのない川の流れ。その流れを観ることに徹している姿が、『徒然草』の底流にあるように思う。
無常とは、単に儚さを嘆くことではない。移り変わる世界に身を置き、その一瞬一瞬に生命を感じることでもある。
兼好さんにも好き嫌いがあり、時には皮肉もあり、人間らしい偏りもある。それも含めて、私は兼好さんと共に歩いている。『徒然草』は、この繊細な感覚を共にもつ人への郷愁であり、人生の旅の友である。七百年ほどの時を隔てても、同じ生命の響きを感じることができる。そこに古典を読む喜びがある。
【今、ここで。生きる生きる】
祭りを人生の流れとして観ても面白い。人生にも、始まりがあり、盛りがあり、終わりがある。しかし、その一部分だけが人生なのではない。
「今、ここで」を感じ、体験し、生きる。そして、その「生きる生きる」を人々と分かち合う。ここに、私が考えている「ジンカン」の意味がある。
これからの時代、一人一人の「人」が独立した世界をもつようになる。そのことを自覚した人々が、どのように連携して新しい世界を創っていくのか。私は、そのことを考えている。
独立することは、孤立することではない。連携することは、誰かに従属することでもない。それぞれが独立した世界をもち、互いに響き合いながら、新しい秩序を創っていく。その人と人との間に生まれる世界を、私は「ジンカン」と呼びたいのである。
【信は一日にして成らず】
では、独立した人々は何によって結ばれるのだろうか。私は「信」だと思う。
信は一日にして成らず。
しかし、一日の小さな事を積み重ねることからしか、ジンカンに信は染み通らない。
信は、理念を掲げるだけでは生まれない。日々の小さな約束を守り、目の前の仕事を丁寧に行い、人との関わりを大切にする。その積み重ねによって、少しずつ育っていくものである。以前から考えている「お金のチェーンから信用のチェーンへ」という構想も、ここにつながっている。
そして、これから始まる新世界の秩序を学ぶ教材として、私は『論語』を読もうと思っている。『論語』がすべてだとは考えていない。孔子もまた、古い秩序が揺らぐ時代に生きた人であった。その時代の人々が、人と人との関係や社会の秩序をどう模索したのか。それを学びながら、私たち自身の時代を考えていきたい。
【土は水 ― 茶碗屋の仕事から】
今朝は、土と水の話にもなった。
「土は水」。
土は水を含むことで可塑性をもち、形を変えることができる。そして、乾燥と焼成を経て、もとの土には戻らない焼き物となる。可逆と不可逆。茶碗屋は、物質の変化を利用して形を作っている。
しかし、どのような形を作るのか。そこには、使う人がいる。料理を作る人がいる。食卓を囲む人々がいる。ジンカンが形を決める。こころが形を生み、形がまた人々の暮らしに入っていく。
私は五十年、この仕事を続けてきた。しかし、いくら立派な茶碗を語っても、轆轤を挽かなければ茶碗は生まれない。
「言うは易く、行うは難し。」
新しい世界について語ることも同じである。日々の具体を通して、少しずつ形にしていくしかない。
【小さな工房から始まる新世界】
今日、伏原窯では午後一時半から、森本さんの版画教室第二弾が開かれる。参加されるのは、今朝の座禅会にも参加された溝尾さん、オッチーこと越智さん、そして太極拳仲間の前田麻里子さん。それぞれ異なるご縁から、人々が工房に集まってくる。
誰かが用意した催しを宣伝媒体に載せ、大勢の人を集める。そんな祭りではない。しかし、ここにも起承転結のある、心の祭りがある。人々が集まり、版画を作り、語り合い、笑い合う。やがて教室は終わり、皆さんはそれぞれの日常へ帰っていく。工房もまた、窯詰めの準備に戻る。
今朝読んだ葵祭の風景と、今日の伏原窯の風景が重なってくる。小さな集まりである。しかし、ここからすでに新世界は始まっている。新世界は、どこか遠くに用意されているものではない。今日の暮らしの中から、人々が自ら創っていくものなのである。
【AIとフシハラ円座】
六月に始まったこの円座も、五ヶ月が過ぎた。毎朝『徒然草』を読み、疑問を語り合い、今日を生きる自分自身の問題として考える。そして、その対話を文章にして残す。このような営みが日常の中で可能になったのも、進化したAIのお陰である。
しかし、AIが私たちの人生を決めるのではない。自分で観て、自分で考え、自分で決断し、実践する。AIは、その学びを支える新しい道具であり、対話の相手である。一人一人が自分の世界を創っていく時代。フシハラ円座は、その小さな実践なのである。
■ 四、今日の結び ― 心の祭り
今朝は葵祭から始まり、人生の流れ、感応道交、ジンカン、信、そして新世界へと話が広がった。しかし最後には、また今日の工房の暮らしに帰ってきた。これがフシハラ円座の面白いところである。古典を学ぶことは、昔の知識を蓄えることだけではない。昔の人々と共に、今日を生きることである。
変わる変わる。
生きる生きる。
そして、ジンカンを創る。
今日も工房では、小さな心の祭りが開かれる。祭りが終われば、またいつもの仕事に戻る。窯を詰め、火を焚き、茶碗を作る。その普通の暮らしの中に、新しい世界の芽が育っている。
普通が一番。
さて、第百三十七段はまだ終わっていない。兼好さんはこの先、人の命の儚さ、そして生きていることの哀れへと筆を進めていく。今日私たちが語った「辛うじて生きている自己を観る」という言葉も、そこにつながっていくだろう。明日は、もう少し兼好さんと歩いてみたい。
徒然草は、人生の旅の友。
令和8年11月1日
水間焼 伏原窯
フシハラ円座
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