窯元日々雑感 徒然草 第百三十七段①

窯元日々雑感 徒然草 第百三十七段①

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なるみと読む徒然草

 

第百三十七段(その一)

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは

令和八年十月二十八日(水曜日)晴れ

フシハラ円座 — 工房にて

いよいよ『徒然草』も下巻に入った。

 

今日は第百三十七段。

兼好さんの本領が発揮された、美しく、しかも気迫に満ちた長い文章である。

花、月、男女の情愛、人生の移ろい、そして生と死。

その豊かな世界を一日で読み尽くすのは惜しい。

今日は冒頭の花と月、そして人の情愛を中心に、兼好さんの世界を訪ねてみたい。

 

一、原文

«花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。

雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほ、あはれに情け深し。

咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。

歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障ることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れることかは。

花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。»

 

二、現代語訳

花は満開のときだけを、月は曇りなく照っているときだけを、見るものだろうか。いや、そうではない。

雨に向かって見えない月を恋しく思い、家に閉じこもって春の行方を知らずにいるのも、やはり趣があり、情趣が深い。

今にも咲きそうな梢や、花が散りしおれた庭などにこそ、見るべきところが多い。

和歌の詞書にも、「花見に出かけたところ、すでに花が散ってしまっていた」とか、「差し支えがあって花見に行けなかった」などと書かれているが、それらは「花を見て」と書かれたものに劣るだろうか。決してそうではない。

 

花が散るのを惜しみ、月が西に傾くのを慕うのは自然なことであるが、ことに情趣を解さない人は、「この枝も、あの枝も散ってしまった。もう見るところがない」などと言うようだ。

 

三、フシハラ円座 — 一瞬一瞬の生の賛歌

今日、最初に感じたことは、兼好さんの文章に秘められた力強さだった。

美しい文章である。

しかし、それだけではない。

極めて理論的でありながら、その奥に激しい生命の躍動がある。

「一瞬一瞬の生の賛歌を聞こうではないか。」

そんな声が聞こえてくる。

花は咲く。

花は散る。

月は満ち、月は欠ける。

人は出会い、恋をし、別れ、また新しい朝を迎える。

その一瞬一瞬が、かけがえのない生の営みなのである。

ここで思った。

この文章は、単なる「日々是好日」という穏やかな境地を語っているのではない。

もっと力強い、生命の全体を肯定する世界が感じられる。

全分肯定、全分他力。

これは信仰に生きる者が、その身を通していただく言葉である。

すべての出来事は回向され、私に、あなたに、特別に用意された愛のすべてである。

それを領解したとき、魂の底から歓びが湧き上がる。

理屈で説明できる世界ではない。

信仰に生きる、そのところにある。

 

四、移りゆく世界と我が鼓動

瞬、瞬。

我の鼓動と、移りゆく世界が一つになる。

花が散る。

風が吹く。

雲が流れる。

そのすべての動きの中に、私の鼓動もある。

世界の外側に立って、移ろいを眺めているのではない。

私自身もまた、その移ろいのただ中にいる。

兼好さんは、この激しい生命の働きを、実に静かな文章で表現している。

爆発を制御しながら、移りゆく美を発見し、静かに表現する。

何という文章の力だろう。

陶芸にも通じるものがある。

土を練り、轆轤を挽き、炎に委ねる。

激しい変化を経て、一つの茶碗が生まれる。

出来上がった茶碗は、何事もなかったかのように、静かにそこにある。

兼好さんの文章にも、そんな静けさを感じる。

 

五、男女の情愛もまた美しい

この段では、花や月の美しさから、男女の情愛へと筆が進んでいく。

逢うことだけが恋ではない。

逢えぬ夜もある。

待つ時間もある。

思い出に心を寄せることもある。

人の情愛は、完成された一つの姿にとどまるものではない。

移りゆく心の姿、そのすべてが人間の生きる世界なのである。

兼好さんは、その人間模様をよく観ている。

僧侶でありながら、人の情愛を切り捨てない。

むしろ、その豊かな心の動きを、美しいものとして描いている。

ここにも、兼好さんの人間への深い眼差しがある。

 

六、仏さま、ありがとうございます

今日、この段を読みながら、ふと思った。

兼好さんは、

「仏さま、ありがとうございます。」

と言っているのではないだろうか。

もちろん、これは本文に直接書かれている言葉ではない。

今日の円座で、信仰に生きる一人の茶碗屋が、兼好さんの文章に触れて感じたことである。

咲く花も、散る花も。

満ちる月も、欠ける月も。

恋する歓びも、別れの悲しみも。

そのすべてをいただいている。

だから、ありがとうございます。

無常の世界を悲観するのではない。

その世界を生きることの歓びがある。

全分肯定、全分他力。

今日の円座は、この言葉にたどり着いた。

 

七、結び — 花は盛りに

兼好さんは、満開の花を否定しているのではない。

散った花だけを褒めているのでもない。

花が咲くこと、散ること。

月が満ちること、欠けること。

その移ろいの中に、尽きることのない美の世界を見いだしている。

そして今日、私たちはそこに、一瞬一瞬の生の賛歌を聞いた。

花は咲く。

花は散る。

それでも春は、春である。

我が胸には、今日も鼓動がある。

その一打、一打が、移りゆく世界と響き合う。

今日も生かされています。

ありがとうございます。

第百三十七段は、まだ続く。

明日は、この美しい文章のさらに奥へと歩みを進めよう。

令和八年十月二十八日

水間焼 伏原窯

フシハラ円座「なるみと読む徒然草」

第百三十七段(その一)了なるみと読む徒然草‐第一話

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