なるみと読む徒然草
第百三十四段 老いを学ぶこと ― 黄金の檻から出る
令和8年10月25日(日曜日)曇り
午前8時 フシハラ円座
一、原文
高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、或る時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくく、あさましき事を、あまりに心憂く覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後、長く鏡を恐れて、手にだに取らず、更に人に交はる事なし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。
賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。己れを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の侵すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして外の譏りを知らず。
但し、かたちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。
かたちを改め、齢を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑かに身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ茲を思ふこと茲にあらざる。
すべて、人に愛楽せられずして衆に交はるは恥なり。かたち見にくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪の芸をもちて堪能の座に列り、雪の頭を頂きて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来たらざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命を終ふる大事、今ここに来たれりと、確かに知らざればなり。
—
二、現代語訳
高倉院の法華堂に仕えていた三昧僧で、何とかいう律師がいた。
ある時、鏡を手に取り、自分の顔をつくづく眺めたところ、その姿が醜く、情けないことを、ひどくつらく感じた。
鏡さえ嫌になるほどだったので、その後は長く鏡を避け、手に取ることさえなく、人との交際もすっかり絶ってしまった。
ただ御堂のお勤めにだけ参加して、籠もって暮らしていたと聞いたことは、まことに感心すべきことだと思われた。
賢そうに見える人でも、他人のことばかり判断して、自分自身のことは知らないものである。
自分を知る人こそ、本当に物事を知っている人というべきだ。
容姿が醜いことも、心が愚かなことも、芸が拙いことも、自分が取るに足りない存在であることも知らない。
歳を取ったことも、病が身体を侵していることも、死が近づいていることも、自分の行いが道にかなっていないことも知らない。
自分の欠点を知らないのだから、まして他人から非難されていることなど分からない。
もっとも、容姿は鏡を見れば分かり、年齢は数えれば分かる。
自分のことを全く知らないわけではない。しかし、どうすることもできないので、知らないのと同じようなものだと言うべきなのだろう。
容姿を変えよ、若返れと言っているのではない。
自分の能力が劣っていると知ったなら、なぜその場から退かないのか。
老いたと知ったなら、なぜ静かに、安らかに身を置こうとしないのか。
自分の行いが愚かだと知ったなら、なぜ心を本来向けるべきところへ向けないのか。
およそ、人から好かれてもいないのに、人々の中に交わろうとするのは恥ずかしいことである。
容姿も見苦しく、才覚も乏しいのに人前に出て仕え、知恵もないのに優れた人々と交わり、十分な技量もないのに達人たちの席に加わる。
白髪頭になりながら働き盛りの人々と肩を並べ、まして、自分には及ばないことを望み、叶わないことを嘆き、まだ来ないことを待ち、人を恐れ、人に媚びる。
それは他人から与えられる恥ではない。
欲望に引きずられて、自らを恥ずかしい立場に置いているのである。
欲望が尽きないのは、命が終わるという重大な出来事が、今まさに自分に迫っていることを、確かに知らないからなのである。
—
三、フシハラ円座 ― 兼好さんは誰に語っているのか
今朝の第百三十四段は、何やら兼好さんの舌鋒が鋭い。
人間の愚かさを次々と挙げ、容赦なく批判している。
しかし、冒頭の僧侶の話を読んで、少し立ち止まった。
兼好さんは、この僧侶をたいそう褒めている。
なぜだろう。
鏡に映った自分の姿を見て、老いを自覚し、人々との交わりを控えるようになった僧侶。
しかし、仏道を捨てたのではない。
御堂の勤めには参加し、日々の行を続けていた。
ここが大切なのである。
世間との交わりを控えたことは、人生から退いたことではない。
自分の生きる世界を見定めたのであろう。
私は、この僧侶の話を、兼好さん自身への問いかけとして読んでみたい。
兼好さんもまた、世間から退いた人である。
その兼好さんが、僧侶の生き方を称え、続いて世間の人々を厳しく批判する。
しかし、その批判は、果たして他人にだけ向けられたものだろうか。
兼好さんは、僧侶を褒めながら、自分自身を説き正している。
そう読めば、厳しい言葉の奥に、一人の人間の切実な姿が見えてくる。
兼好さんもまた、老いを学ぶ人なのである。
四、隠遁文学という豊かな世界
ここで、日本の隠遁文学を考えてみたい。
鴨長明、西行、吉田兼好。
そして時代を下って、旅に生きた松尾芭蕉。
日本には、何と多くの人々が、豊かな「こころ」の世界を残してくれたことだろう。
長明は方丈に暮らし、西行は山野を歩き、兼好は人間の営みを観察し、芭蕉は旅を続けた。
それぞれの時代も、生き方も違う。
芭蕉は中世の隠遁者ではないが、その文学には、先人たちから受け継がれた無常観や旅の精神が息づいている。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
病に伏してなお、夢は旅を続けている。
また、晩年の芭蕉が求めた「軽み」にも、歳月を重ねた者の表現の変化が見える。
世間から身を引くことは、人間の世界を捨て去ることと同じではない。
むしろ、世間から距離を置くことで、人間をより深く観ることができる。
兼好さんの『徒然草』も、そのような文学なのであろう。
しかも、彼らが生きた時代には、社会の大きな変化があった。
中世には、政治や社会の秩序が揺らぎ、仏教の新しい動きも生まれ、さまざまな形の出家者や遁世者が現れた。
隠遁は、単なる個人の気分ではない。
時代の中で、人がいかに生きるかを問う、一つの選択でもあった。
そして、その選択から豊かな文学が生まれた。
日本には、豊かな「こころ」の世界がある。
長明、西行、兼好、芭蕉。
その言葉が何百年もの時間を超えて、今も私たちに語りかけてくることが、その豊かさを物語っている。
五、老いは生者の必須課目
さて、今日の円座の中心に戻ろう。
老いは、この世界の生者の必須課目である。
人は誰もが歳を重ねる。
しかし、歳を重ねることと、老いを学ぶことは違う。
老いを学ぶには、時間を学ばなければならない。
時間とは、時計が刻む数字だけではない。
生きてきた経験であり、積み重ねてきた日々であり、喜びや悲しみを含んだ、自分自身の存在なのである。
人は「心」と「こころ」をもって生きている。
私は、その二つを区別しながら、ジンカンを観ている。
人との関係、社会の価値観、名誉や地位、欲望や競争。
そのようなジンカンの中で、人は自分を見失うことがある。
冒頭の僧侶は、鏡を通して、自分の生きてきた時間を観たのであろう。
そして、ジンカンの中で生きることを控え、自分の「こころ」の世界へ帰っていった。
これは老いを嘆くことではない。
老いを学び、新しい生き方を獲得していくことなのである。
老いの本質は、失うことではなく、熟し、獲得していくことにある。
ただ歳月が過ぎれば、自然に円熟するわけではない。
自分を知り、時間を学び、日々の暮らしの中で、その学びを生きていく。
そこに老いの豊かさがある。
六、黄金の檻から出る
今朝、一つの言葉が生まれた。
老いを学ぶこと。それは黄金の檻から出ることである。
黄金の檻。
名誉、地位、財産、知識、経験。
長い年月をかけて獲得してきたものが、いつしか自分を閉じ込める檻になってしまう。
しかも、黄金でできているから、なかなか手放せない。
人はその中で、自由に生きているつもりになる。
しかし、老いを学ぶとは、その檻をさらに立派に飾ることではない。
そこから出ていくことなのである。
ここで、孔子の言葉を思い出す。
「七十にして心の欲する所に従ひて、矩を踰えず。」
七十歳になって、心の赴くままに生きても、人としての道を踏み外さなくなった。
こころは自由である。
しかし、ジンカンの矩、宇宙の矩を超えない。
これは、自由を制限されているということではない。
長い時間を学び、生きてきた者が獲得する、自然な調和なのであろう。
黄金の檻から出ても、そこには広い世界がある。
他者があり、自然があり、宇宙がある。
その中で、自在に、しかも調和を失わずに生きる。
そこに円熟の一つの姿がある。
七、円熟二年生、生涯書生
私は七十一歳。
自分では「円熟二年生」と呼んでいる。
ハハハ。
円熟とは、何もかも分かってしまうことではない。
まだまだ学ぶことがある。
書を学び、論語を学び、徒然草を読み、土に向かい、轆轤を挽く。
毎日が新しい。
失敗もする。
思い違いもする。
それでも、変わる変わる。
昨日の自分が今日の自分となり、今日の自分が明日の自分となる。
それを「なるみ」と呼んできた。
円熟とは、完成することではなく、熟しながら変わり続けることなのであろう。
そして、そこには自由がある。
生涯書生。
兼好さんもまた、そうして老いを学び続けた一人の人間だったのではないだろうか。
悟りきった人として兼好さんを読む必要はない。
迷いもあり、執着もあり、時には厳しく自分を戒めながら、生き方を問い続けた人として観たい。
その方が、兼好さんの言葉は、ずっと身近に響いてくる。
八、結び ― こころを形に
今朝の第百三十四段は、一人の僧侶の話から始まった。
鏡に映る自分を観て、生き方を問い直した僧侶。
その姿を称える兼好さん。
そして、歳を重ねてもなお、自分自身を知らず、世間の欲望に引きずられる人間への厳しい言葉。
しかし、その厳しさの奥には、兼好さん自身の切実な問いがある。
老いをどう生きるか。
時間をどう学ぶか。
そして、自分の「こころ」をどう生きるか。
日本の隠遁文学は、その問いを長い時間をかけて育んできた。
長明も、西行も、兼好も、芭蕉も、それぞれの生き方を通して、豊かな「こころ」の世界を残してくれた。
私たちもまた、その流れの中に生きている。
茶碗屋は土に向かう。
土を練り、轆轤を挽き、形を整え、窯に火を入れる。
一つの器に、今日という時間が宿る。
こころを形に。
そして、その器は誰かのもとへ旅立っていく。
旅する器。
今朝は曇り空。
季節外れの台風が近づき、雨風が気になる日曜日である。
これからプールへ行き、身体を整える。
午後には難波へ出て、左膝をいたわりながら、自分の足に合う靴を探そうと思っている。
老いを学ぶことは、こうした日々の暮らしの中にもある。
大げさなことではない。
今日の身体を知り、今日の時間を生きる。
そして、明日へと歩いていく。
老いを学ぶこと。
黄金の檻から出ること。
こころは自由であり、ジンカンの矩、宇宙の矩を超えず。
円熟二年生。
生涯書生。
今日も生かされています。
なるみ。
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令和8年10月25日
水間焼 伏原窯
フシハラ円座
『なるみと読む徒然草』第百三十四段
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