なるみと読む徒然草
第百三十七段(二日目)
令和8年10月29日(木曜日)晴れ
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは
一、原文(本日取り上げた部分)
男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
二、現代語訳
男女の情愛も、ただ逢って契りを結ぶことだけをいうのだろうか。
逢えないまま終わった恋のつらさを思い、果たされなかった約束を嘆き、長い夜をひとりで明かす。
遠く離れた人を思いやり、草の茂る荒れた住まいに昔の面影をしのぶ。
そうした心の営みこそ、恋の情趣を深く知るというものだろう。
三、フシハラ円座 — 恋する生命、創造する人生
恋の輪郭
昨日は自然の美しさから、人間の内面、こころで観る世界を語り合った。
今日は男女の情愛である。
兼好は、逢うことだけが恋ではないという。
なぜ逢えない恋を描くのだろう。
「恋の輪郭がハッキリ見えるからです」
好き嫌いから始まる男女の情。
逢えないとなぜか苦しくなる。その苦しさを経験しながら、恋は深まってゆく。
いつも一緒にいたら、かえって愛が見えなくなることもある。
恋は完成されないからこそ意味がある。
恋から愛へ。
そして、愛になったからといって、恋が終わるわけではない。
「生涯恋しているものですよ!」
人は老いても、恋する生命を生きている。
裏を見せ、表を見せて
ここで良寛の句を思い出した。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
表の私も、裏の私も、一つになって散ってゆく。
自然、男女、生命。
小さな草花から大きな宇宙まで。
人は恋をし、愛を知り、歳月を重ね、老い、病み、死を迎える。
そのすべてが一人の人生である。
自我の世界から観るものとは、まったく違う世界がある。
感応道交の霊恋
佛思いで暮らす日々。
一乗念仏、日日念仏。
感応道交の霊恋。
佛に恋焦がれ、修行三昧の日々を重ねる。
求道心と菩提心。
やがて、我が佛を思っているのか、佛が我を思っておられるのか、主客の隔たりがわからなくなってくる。
啐啄同時(そったくどうじ)。
雛が殻の内からつつき、親鳥が外から応える。
その呼応の中に、新しい生命が現れる。
信仰とは、言葉を知ることだけではない。
生きて、経験して、いただく世界なのである。
変わる変わる。
自然も、人間も、こころも、変わり続ける。
人はその変化を何とか捉えようとして、情報を求める。
過去、現在、未来という時間軸を、自分の暮らしの中に確かな形として置きたい。
自分の証明である。
しかし、その自分もまた変わり続けている。
「私は未来、現代、過去を一つにしたいと思っています」
良寛は手放して一つになった。
私は創造という行為を経て、一つになる。
ここに、茶碗屋としての生き方がある。
大阪の茶碗屋
陶芸は、完成形をしっかり心に描いてから始まる。
とりわけ器屋は、見込みを大切にする。
外の形状は、見込みの確かさで決まる。
過去に培った技をいただき、未来の器を思い描き、今、轆轤を挽く。
未来、現代、過去。
創造という行為の中で、時間が一つになる。
なぜ現代アートではなく、茶碗屋を選んだのか。
「人の役に立ちたかったのです」
大阪の窯元、茶碗屋になって、八百万個の飯碗を作ろう。
大阪府の人口を念頭に、一人に一つの飯碗を届けたいという、具体的な願いである。
みんなの飯碗を普通に作って、それで暮らしていけたら仕合わせ。
それだけのことである。
ところが、現代の大阪には、そのような思いで毎日轆轤を挽いている茶碗屋がほとんどいない。
伝統的な窯業地なら、ごく普通の茶碗屋だったかもしれない。
しかし大阪では、その普通の営みそのものが、アートになってしまう。
アートを目指したのではない。
人の役に立つ飯碗を作りたかった。
そして、今日も轆轤を挽く。
四、結び — 普通が一番
花は咲き、花は散る。
月は満ち、月は欠ける。
人は恋をし、愛を知り、老いてゆく。
変わる変わる。
その変化を生きながら、人はそれぞれの道を歩む。
良寛は手放して一つになった。
私は創造という行為を経て、一つになる。
兼好の花や月から始まった二日間の円座は、男女の情愛、信仰、そして大阪の茶碗屋の暮らしへと帰ってきた。
一つの飯碗を作る。
誰かがその飯碗でご飯をいただく。
また明日も、その飯碗が食卓に並ぶ。
そこに、過去も現在も未来も生きている。
うつわ一つ、夢一つ。
こころを形に。
普通が一番。
今日もまた、仕合わせな茶碗屋の一日が始まる。
令和8年10月29日
水間焼 伏原窯
フシハラ円座「なるみと読む徒然草」
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