川のほとりで
令和八年八月九日(日曜日)夜
『方丈記』の「養和の飢饉」を読む。
今夜は、最も厳しい場面を読み進めた。
食べ物がなくなり、家も財も何の役にも立たなくなる世界。
その中で、親は子を思い、夫婦は相手を思い、見知らぬ死者の額に「阿」の字を書いて弔う人がいる。
極限の中で、何が人を人たらしめるのか。
そこから、今夜の問いが始まった。
すべてを失った時にも、なお人は人であり得るのか。
頭で理解した倫理や教えは、いざという時には吹き飛んでしまう。
その時に現れるのは、日々どう生きてきたかという、その人の身体に染みついた姿なのだろう。
人はひとりでは生きられない。
人として生まれ、
ジンカン(人と人の間)に生き、
人に帰り、死んでいく。
自我で生きることはできても、最後まで自分ひとりで完結することはできない。
誰かを思うことによって、はじめて自己を見つめることができる。
その静かな働きこそが、人を人たらしめているのではないか。
愛。
慈悲。
それは大きな理念として掲げるものではなく、日々の小さな行いの中で、少しずつ身につけていくものなのだと思う。
人の話を聞く。
誰かを気遣う。
食べ物を分ける。
言葉を慎む。
手を合わせる。
そんな小さな営みを真摯に積み重ねること。
そうしていざという時に、その人はその人になる。
人は完成して生まれてくるのではない。
日日、人間になっていく存在なのだろう。
やがて思索は、時間へと進んだ。
人に与えられた時間には限りがある。
その「限り」の大切さが本当に分かる頃には、残された時間も少なくなっている。
けれど、だからこそ一日が深くなるのだ。
誰かとお茶を飲むこと。
人とすれ違うこと。
一つの器を仕上げること。
古典の一節を読むこと。
何気ない出来事の一つ一つが、二度と同じ形では訪れない。
極限の世界を描く『方丈記』を読んでいるうちに、無常の底から、もう一つの大きな世界が静かに立ち上がってきた。
人は、なぜ人として生まれてきたのか。
その答えを、大げさな言葉にしてしまう必要はないのだろう。
日日の小さなところに、すでに答えは現れている。
小さなところに神宿る。
何気ない様子。
小さな出来事。
人とのすれ違い。
神は大きな中心におられるのではなく、いつも少し端の方に、静かにおられるように感じる。
形を生業とする者には、その感覚がよく分かる。
器も、中心だけでは形にならない。
縁。
際。
余白。
厚み。
立ち上がり。
目立たない端のわずかな違いが、全体の気配を決めていく。
だから今夜、最後に残った言葉は、
神は端っこにおられる。
だった。
養和の飢饉という辛い場面から始まり、人とは何か、限られた時間をどう生きるか、そして日日の小さなところに宿るものへ。
今夜も、川のほとりで随分遠くまで歩いた。
そして最後は、また暮らしの小さな縁へと帰ってきた。




