なるみと読む徒然草 第八十六段
令和8年8月30日(日曜日)晴れ
今朝は午前六時半に目覚め、徒然草の予習をする。八時五十分起床。
第八十六段は、ほんの短い一文である。
惟継中納言は、風月の才に富み、一生を精進のうちに過ごし、読経に励んだ人であった。その人が、文保三年の三井寺焼き討ちに遭遇する。
三井寺は、比叡山延暦寺の山門派に対して寺門派と呼ばれた大きな勢力であった。単なる寺ではない。宗教、政治、武力、権益が重なり合う時代の中で、寺そのものが一つの巨大な力であった。
その寺が焼かれた。そこで、
「これまでは寺法師と申していたが、寺がなくなったのだから、これからは法師と申そう」
という一言が出る。兼好は、それをただ、
「いみじき秀句なりけり」
とだけ記した。
表だけを読めば、気の利いた洒落である。しかし今日の私には、その一言の裏に、かなり辛辣なアイロニーがあるように思えた。
寺が焼かれて、寺法師がただの法師になる。寺という勢力、所属、権威、出世、武力、政治との結びつき——それらが剥がれ落ちて、最後に残るのは、一介の法師、一人の沙門である。そこには僧団の勢力化への静かな批判も読めるし、無常の世を示す言葉とも読める。
しかし、私はそこで終わらなかった。
「ああ、この世は無常だ。せっかく徳を積んだ人が、出世の道も絶たれ、ただの沙門になってしまった」——そういう哀れみの話ではないように思えた。
むしろ、ここからが本当の仏道なのではないか。寺という大きな力から離れ、肩書きから離れ、ただ一人の沙門に帰る。それは転落ではなく、本来へ帰ることである。心の修練として積んできたものを、これからは実際の生き方として現していく。
無常は、ただ奪うのではない。余計なものを剥がし、本来へ帰すこともある。そこに私は慈悲を感じた。
一介の沙門に戻れ。その声は厳しい。しかし、突き放す声ではない。本来の道へ帰せ、と促す天の声のようにも聞こえた。
そして、寺がなくなり、勢力から離れ、ただの法師となったその瞬間は、こころの世界を生きることを許された瞬間、とも読めるのではないか。内に培ったものを、暮らしへ、人との関わりへ、具体へと現していく。私は、それを、
「こころをかたちに」
と呼んでいる。
だからこそ、「いみじき秀句」は、表の洒落だけではない。裏には時代批判があり、僧団批判があり、無常があり、そのさらに奥には慈悲と仏道への帰還がある。
兼好は、それを長々とは説かない。ただ、
「いみじき秀句なりけり」
と置く。その一言が、「ここから先は、自分で読め」と告げているようにも思える。
短い文章だからこそ、説明で閉じられない。読む人によって、いろいろである。私は、そのように読みました。
第八十六段。短いが故に、深くまで届く一段でした。
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