窯元日々雑感 徒然草 第八十七段

窯元日々雑感 徒然草 第八十七段

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なるみと読む徒然草 陶主日記
令和八年八月三十一日(月曜日)晴れ

徒然草 第八十七段
午前六時三十五分目覚め。七時十分起床。八月も今日で終わる。

今朝は『徒然草』第八十七段を読む。
酒に酔った男が、道中で奈良法師の一行と出会う。相手は多勢、しかも武装している。普通ならば自分の位置を悟り、争いを避けるところであろう。しかし男は太刀を抜いた。具覚房が機転を利かせ、「正気もないほど酔っておりますので、どうかお許しください」と詫び、ようやくその場を収める。

ところが男は怒った。
「己れ酔ひたる事侍らず。高名仕らんとするを……」
自分は酔ってなどいない、せっかく手柄を立てようとしていたのに――と、命を救ってくれた具覚房にまで刃を向ける。

この一言ほど、酒の怖さを語る言葉もないように思う。「私は酔っていない」。そう言っている本人こそ、自分が見えていない。それはまるで「私は今、不覚の中におります」と、自ら宣言しているようなものではないか。
酒が人を別人にするというより、酒は、人の内に潜んでいる危ういものを表へ引き出す。

人はジンカン――人間社会の中で生きている。自分の位置を悟り、相手を見、場を心得、出るところと退くところを知りながら、自らを抑制して務めている。そのことを心得ている者を、賢者というのであろう。

ところが酒は、その一線を溶かす。慎みも、恐れも、遠慮も薄れ、自我だけが大きくなる。この男の中には、「多勢の奈良法師に立ち向かい、高名を挙げる自分」という姿が現れていた。しかし、それは現実ではない。酒と自我が作ったイルージョンであった。その幻想を現実と思い込み、助けてくれた者を斬り、自らも傷つき、ついには捕らえられる。これ以上の惨劇もない。

昔は腰に刀があった。ほんの一瞬、一線を越えれば、そのまま命のやり取りになる。誠に怖い話である。
けれども、これは昔だけの話ではない。巷では、今も酒によって自我が膨らみ、些細な一言や視線から争いが始まる。一歩間違えれば、地獄一条。

そして、この段を読みながら、さらに思う。この世は何で出来ているのだろう。現実なのか、それともイルージョンなのか。心は一念のうちに喜び、怒り、欲、恐れ、増長へと動き、六道を経巡るように、自ら世界を演出する。

だからこそ、ここで止めておく。
八月三十一日。秋隣から、秋となりぬ。正気の我らは、今日一日の時間を頂いた。ならば、目の前のことを一つずつ。人の中で、自分の位置を心得、手を動かし、務めを果たす。今日一日、誠意いっぱい、はたらこう。
では、今日も始めることにする

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