なるみ随筆
黄金の檻から出る ― 老いを学ぶということ
令和八年十月二十五日
人は歳を取る。
誰もが知っていることである。
しかし、歳を取ることと、老いを学ぶことは、どうやら違うらしい。
今朝も『徒然草』を読んでいた。
第百三十四段。
兼好さんは、ある僧侶の話を書いている。
鏡に映った自分の姿をつくづく眺め、その老いた姿に驚き、人との交わりを控えるようになった僧侶である。
しかし、御堂の勤めは続けていた。
兼好さんは、その生き方を称えている。
私は、ここが気になった。
この僧侶は、人生から退いたのではない。
むしろ、自分の生きる世界を見つけたのではなかろうか。
鏡に映ったのは、単なる老いた顔ではない。
生きてきた時間そのものだったのであろう。
そして兼好さんもまた、世間から退いた人である。
僧侶を称えながら、実は自分自身に語りかけていたのではないか。
そんなふうに読むと、文章の景色が変わってくる。
人間は、長い年月をかけて、さまざまなものを手に入れる。
名誉、地位、財産、知識、経験。
どれも大切なものには違いない。
しかし、手に入れたものが、いつしか自分を閉じ込める檻になってしまうことがある。
しかも、その檻は黄金でできている。
美しく、立派で、なかなか捨てられない。
人はその中で、自由に生きているつもりになっている。
老いを学ぶとは、その黄金の檻から出ることではないか。
今朝、そんな言葉が生まれた。
日本には、豊かな「こころ」の世界がある。
鴨長明、西行、吉田兼好。
そして時代を下って、松尾芭蕉。
方丈に暮らし、山野を歩き、人間を観察し、旅を続けた人々。
世間を離れることは、人間を捨てることではなかった。
むしろ、世間から少し距離を置くことで、人間の営みがよく見えてくる。
彼らが残した言葉は、何百年もの時間を超えて、今も私たちに届いている。
何と豊かな文化であろう。
そして、何と自由な人々であろう。
孔子は言った。
「七十にして心の欲する所に従ひて、矩を踰えず。」
七十歳になって、心の赴くままに生きても、人としての道を踏み外さなくなったという。
自由とは、何をしてもよいということではない。
ジンカンの矩があり、宇宙の矩がある。
その中で、こころが自在に働く。
長い時間を学んだ人間の、一つの姿なのであろう。
私は七十一歳。
円熟二年生である。
ハハハ。
まだまだ知らないことがいっぱいある。
書を学び、論語を学び、徒然草を読み、土に向かう。
轆轤を挽き、器を作る。
失敗もする。
思い違いもする。
それでも、昨日とは少し違う自分がいる。
変わる変わる。
それを「なるみ」と呼んできた。
老いとは、何かを失っていくことばかりではない。
時間を重ねることで、初めて獲得できるものがある。
見えなかったものが見えてくる。
手放せなかったものが、いつの間にか手放せるようになる。
何より、自分の生きる時間が、少しずつ自分のものになっていく。
老いは、生者の必須課目である。
そして、その課目には卒業がない。
生涯書生。
さて、今日は日曜日。
曇り空で、雨風も気になる。
これからプールへ行って身体を整え、午後は難波へ靴を探しに行こうと思う。
左膝のこともある。
自分の身体と相談しながら、今日の一日を生きていく。
大げさなことではない。
黄金の檻から出るというのも、案外、このような日々の暮らしの中にあるのかもしれない。
今日も生かされています。
一服のお茶に宇宙があり、一つの器に今日という時間が宿る。
こころを形に。
変わる変わる。
なるみ。
令和八年十月二十五日
水間焼 伏原窯




