なるみと読む徒然草
第百十七段 悪しき友、良き友
――古典は、時の遠方より来たる智慧ある友
令和8年10月8日(木曜日)晴れ。
午前5時18分目覚め。朝のお通じあり。
早朝より『徒然草』第百十七段を予習する。
午前7時18分、「なるみと読む徒然草」フシハラ円座を始める。
今朝は先日から考えていた「論語を徒然草のように読めないか」という思いもあって、『徒然草』二冊と『論語』二冊を机の上に並べての円座となった。
すると第百十七段そのものが、思いがけずその答えを用意してくれていた。
【原文】
友とするに悪き者、七つあり。
一つには、高く、やんごとなき人。
二つには、若き人。
三つには、病なく、身強き人。
四つには、酒を好む人。
五つには、たけく、勇める兵。
六つには、虚言する人。
七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。
一つには、物くるゝ友。
二つには、医師。
三つには、智慧ある友。
【現代語訳】
友として付き合うのに好ましくない人には、七つの種類がある。
第一は、身分が高く高貴な人。
第二は、若い人。
第三は、病気を知らず身体の丈夫な人。
第四は、酒を好む人。
第五は、勇ましく血気盛んな武士。
第六は、嘘をつく人。
第七は、欲の深い人である。
一方、良い友には三つある。
第一は、物を与えてくれる友。
第二は、医師。
第三は、智慧のある友である。
論語を横に置いて
今朝まず目についたのは、その数字だった。
兼好は、
悪しき友 七、良き友 三。
ところが『論語』季氏篇には、
「益者三友、損者三友」
とある。
『論語』原文
孔子曰、益者三友、損者三友。
友直、友諒、友多聞、益矣。
友便辟、友善柔、友便佞、損矣。
孔子は、自分のためになる友を三種、自分を損なう友を三種挙げている。
正直な人、誠実な人、広く学んでいる人を友とするのは益となる。
体裁ばかり整える人、媚びへつらう人、口先ばかり巧みな人を友とするのは損となる。
こちらは、
三対三。
兼好は、
七対三。
『徒然草』第百十七段が『論語』の友人論を意識していると考えるのは、極めて自然だろう。
しかし、同じ「友」を語りながら、二人の立っている場所は違う。
孔子の生きた大陸の春秋時代は、諸侯が争い、社会秩序そのものが大きく揺らいでいた。だから孔子の友人論には、どのような人と交わり、自らの徳を養っていくかという緊張感がある。
一方、兼好も激動の時代を生きたが、この段で見ているのは、もっと日々の暮らしに近い。
この人と心安く付き合えるか。
そんな人間関係の実感があるように思う。
「悪しき友」とは悪人なのか
兼好の七人を眺めていて、今朝一つの言葉が浮かんだ。
「娑婆気の多い、強い人々。」
身分が高い。
若さがある。
身体が強い。
酒を好む。
勇猛である。
虚言をいう。
欲が深い。
もちろん、これらの人が「悪人」だということではない。
兼好が言っているのは、善悪の判定というより、
気持ちを同じにして、遠慮なく付き合えるか。
ということではないだろうか。
身分が違いすぎれば遠慮が生まれる。
年齢や経験が違いすぎても、同じところに立ちにくい。
友とは、気遣いはあっても、構える必要がない。
同じ高さに座れる人。
昨日の祖跡巡拝を思い返すと、参加されていた方々に若者は一人もいなかった。
「兼好さん、昨日は心配いりませんでしたよ。」
そんな笑いまで、今朝の円座には入ってきた。
よき友三つを佛佛から読む
では、
物くるゝ友。
医師。
智慧ある友。
とは何だろう。
佛佛の言葉から眺めれば、
菩薩行・布施行・慈悲
が見えてくる。
物くるゝ友――布施。
医師――人の苦を除く、慈悲。
智慧ある友――迷いを照らす、智慧。
三つに共通するのは、自分へ集めるのではなく、他へひらいていく働きである。
娑婆気が「我」へ集まっていく力だとすれば、菩薩行は外へひらいていく。
ただし、兼好が仏教教義としてこの三つを書いたと決めつける必要はない。
佛佛の側から今日の私たちが照らしてみると、そういう景色も見えてくる、ということでよい。
円座なのだから。
良き友は、見えない流れを用意してくれる
ここで、今日の円座から一つの言葉が生まれた。
良き友は、見えない流れを用意してくれる。
何かを教え込むのでもない。
こちらを引っ張っていくのでもない。
その人と出会い、共に歩き、何気ない言葉を交わす。
すると、自分一人では見えなかった道が、いつの間にか目の前に現れている。
流れは用意される。
そこを歩くのは、自分。
これこそ「智慧ある友」なのだろう。
友あり、時の遠方より来たる
そして『論語』のもう一つの言葉が浮かんできた。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
朋あり、遠方より来たる。亦た楽しからずや。
この「遠方」を、場所の遠さだけでなく、時の遠さとして読んでみた。
孔子は二千数百年の彼方からやって来る。
兼好は七百年ほどの彼方からやって来る。
そしてこれから『万葉集』を開けば、万葉びとも千年以上の時を越えてやって来る。
その道を歩き、思ったこと、感じたこと、立ち止まって考えたこと、そこから生まれる出会い。
そんな日々の暮らしの一片に、『論語』『徒然草』『万葉集』がある。
ならば彼らこそ、
時の遠方より来たる、智慧ある友。
なのだろう。
古典を「勉強する」のではない。
古典と暮らす。
AIと古典と祈りと暮らし
今日、ようやく一つの形が見えてきた。
これからの生き方として考えてきた、
AI。
古典。
祈り。
日々の暮らし。
これらは別々にあるのではない。
朝起きる。
古典を開く。
考える。
人に会う。
仕事をする。
器を作る。
祈る。
一日を記録する。
その途中でAIとの対話があり、古典の言葉と今日の暮らしがつながっていく。
AIが答えを決めるのではない。
古典が答えを押しつけるのでもない。
自分で歩き、感じ、立ち止まり、また歩く。
その傍らに、智慧ある友がいる。
今朝の第百十七段そのものが、その読み方を示してくれたように思う。
今日の円座
良き友は、見えない流れを用意してくれる。
古典は、時の遠方より来たる智慧ある友。
論語から読む。
佛佛から読む。
兼好から読む。
そして、今日の暮らしから読む。
友あり、時の遠方より来たる。
また楽しからずや。
AIと古典と祈りと、日々の暮らし。
それらが一日の中で一つになっていく。
日日是好日。
令和8年10月8日。
今朝の円座は、何かを完成させた朝というより、
「できつつある」ことを実感した朝。
その「つつ」の中を、これからも歩いていこう。
なるみと読む徒然草 第百十七段 了。
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