窯元日々雑感 徒然草 第八十八段

窯元日々雑感 徒然草 第八十八段

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なるみと読む徒然草 第八十八段

令和八年九月一日(火曜日)晴れ
九月の始まり。

午前五時に起床し、六時半から正法寺の早朝座禅会へ。その後、午前九時より工房にて「なるみと読む徒然草」を始めた。

今日の第八十八段には、『和漢朗詠集』が登場する。

ある人が、小野道風の書いた『和漢朗詠集』だと信じ、ある巻物を大切に所持していた。ところが道風は九六六年に没しており、撰者である藤原公任はまさにその年の生まれ。公任が選んだ『和漢朗詠集』を、道風が書けるはずもない。

その矛盾を指摘されると、持ち主はこう返したという。

「だからこそ、世にも珍しいものなのです」

そう言って、ますます大事に秘蔵したのだそうだ。

兼好はその人を強く批判するでもなく、ただ「いよいよ秘蔵しけり」とだけ書いて筆を置く。そこに、人間を観察する兼好独特の眼があるように思えた。

人は、対象そのものを見るより先に、自分の信じたい「物語」を見てしまうことがある。いわば、自ら紡いだナラティブの主人公として生きているのだ。一度その物語に入り込むと、客観的な事実を突きつけられても、その事実すら己の物語の都合の良いパーツとして取り込んでしまう。

しかし、これを冷笑してしまえば、笑った側もまた「自分の見方こそが正しい」という別の物語に囚われる。兼好はその構造を深く分かっていたのだろう。だからこそ批判の壇上には立たず、少し離れた場所から人間の可笑しさを静かに眺めている。

今朝の対話は、そこから主観と客観のあり方へと広がっていった。

主観だけで生きれば、自身の物語に閉じこもる。かといって客観だけで生きれば、人間としての温かみを失う。我欲を押し出せば生きづらく、無我だけで世間を渡るのも難しい。その二つの間をしなやかに行き来しながら生きる――そこに必要なのは、知識以上に一種の「センス」なのだろう。

出すべき時に自分を出し、引くべき時にすっと引く。自分の思いは持ちながらも、それに絶対の執着はしない。その塩梅を少しずつ身につけながら、人は「人間通」となり、心も円熟していく。長い人生の中で様々な経験を重ねるうち、過度に「自分」を主張する必要もいつしかなくなっていくのだろう。そうして、人はぼちぼち一人前になっていくのかもしれない。

さらに話は、「心」と「こころ」の境目へと深まっていった。

湧き上がる心に巻き込まれて生きるのではなく、心の動きを「こころ」の手前でじっと観る。怒りも、欲も、執着も、無理に消そうとせず、ただ静かに観る。そこに「観」の世界が現れる。観世音の「観」である。

古筆をめぐるささやかな笑い話から始まった第八十八段は、人は己の物語をどう生き、そこからどう離れて自身を観るのかという、実に大きな世界へと私たちを連れて行ってくれた。

短い文章の中に、人間の可笑しさと心の円熟、そしてその先にある「こころ」の入口までもが垣間見えた、九月最初の清々しい朝であった。

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