「方丈記」川のほとりで
令和八年七月二十六日(土)
今の暮らし
私たちは、飽食の時代を生きています。
食べることに困ることは少なくなりました。しかしその一方で、人とのつながりや、暮らしのあり方に迷うことも少なくありません。
そんな時代だからこそ、私は『方丈記』を開きます。
旅の途中、川のほとりにある小さな庵を訪ねるように、鴨長明の言葉に耳を傾けます。
『方丈記』原文
又、養和の頃とか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。
是によりて、国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にその験なし。
念じつづくれど、かひなく、京のならひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやはあるべき。
川のほとりで
養和の飢饉は、長明自身が見聞きした現実として綴られています。
長明は、激しい言葉で人々を煽ることはありません。ただ、目の前で起こった出来事を静かに記していきます。その静かな筆だからこそ、読む者の胸に深く届くのでしょう。
飢えとは、食べ物がなくなることだけではありません。
暮らしが崩れ、人の尊厳が揺らぎ、生きることそのものが試されることでもあります。
七百年という時を経ても、この問いは決して過去のものではありません。
だから私は、『方丈記』を歴史として読むのではなく、今日の暮らしを照らす書として読み続けたいと思います。
この「川のほとりで」は、『方丈記』を解説するための連載ではありません。
旅の途中、方丈の庵を訪ね、鴨長明と共に原文を読み、一節ごとに静かに語り合い、そして再び令和の暮らしへ帰ってくる。その小さな往復の記録です。
今日、書道の会では、高校時代の同級生と五十五年ぶりに再会しました。
先生を含めて六人の小さな会でしたが、その場には自然と人がつながり、共に学び合う空気が流れていました。
私はそこにも、一つの「円座」を見ました。
暮らしを共に生き、
共に考え、
共に育つ。
古典も、書も、器も、そのためにあります。
円座のことば
飢えを知るためではなく、暮らしを知るために『方丈記』を読む。
いつでも。
何処でも。
誰でも。
暮らしを、共に生き、共に考え、共に育つ。
そのような円座を、これからも静かに育てていきたいと思います。
合掌。
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