なるみと読む徒然草 陶主日記
第一〇四段 色気とは、性が際立つこと
令和八年九月十八日(金曜日)曇
午前六時十八分、目覚め。
今朝は『徒然草』第一〇四段を読む。
【原文】
荒れたる宿の、人目なきに、女の、憚る事ある比にて、つれづれと籠り居たるを、或人、とぶらひ給はんとて、夕月夜のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことことしくとがむれば、下衆女の、出でて、「いづくよりぞ」と言ふに、やがて案内せさせて、入り給ひぬ。
心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に暫し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭げなる遣戸よりぞ入り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひ、いとなつかしう住みなしたり。
「門よくさしてよ。雨もぞ降る。御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞ安き寝は寝べかンめる」とうちささめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ。
さて、このほどの事ども細やかに聞え給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来しかた・行末かけて、まめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるゝにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙白くなれば、忘れ難き事など言ひて立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青み渡りたる卯月ばかりの曙、艶にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ。
【現代語訳】
荒れた家の、人目につかないところに、世間を憚らなければならない事情のある女が、することもなくひっそりと籠って暮らしていた。
ある人が、その女を訪ねようと思い、夕月の光もおぼろな頃、人目を忍んで訪ねて行った。すると犬が大げさに吠え立てたので、下働きの女が出てきて、
「どちらからお越しですか」
と尋ねる。そのまま案内させて中へ入った。
なんとも心細そうな暮らしぶりである。いったい、どのように日々を過ごしているのだろうと思うと、ひどく気の毒に感じられる。
粗末な板敷にしばらく立っていると、落ち着いた気配の中から若々しい声で、
「こちらへ」
と言う人がいる。そこで、開け閉めするにも窮屈そうな引き戸から中へ入った。
家の中は、外から想像したほど荒れ果ててはいなかった。
奥ゆかしい様子で、灯は向こうの方にほのかにともっている。その淡い光の中に調度のきらめきなども見え、急に客を迎えるために取り繕ったのではない、暮らし慣れた香りが漂っている。なんとも心ひかれる住まいであった。
女が、
「門をしっかり閉めておいて。雨が降るかもしれません。お車は門の下へ、お供の人たちはそれぞれ適当なところへ」
と言う。
すると供の者たちが、
「今夜こそ、ゆっくり眠れそうだ」
と小声で囁き合う。その声を忍ばせてはいるものの、そう遠くないので、かすかに聞こえてくる。
さて、その後、これまでのことなどを細やかに語り合っているうちに、夜更けの鳥が鳴いた。
過ぎ去ったことから、これから先のことまで、心を込めて語り合う。そのうち鳥が今度は華やかな声でしきりに鳴き始めたので、もう夜が明けるのだろうかと思った。
しかし、夜中に急いで帰らなければならないような場所でもないので、少しゆっくりしていると、戸の隙間が白み始めた。
そこで、忘れ難いことなどを語り残して、男は家を出る。
梢も庭も、見違えるように一面青々としている。
卯月ごろの曙であった。
その光景がなんとも艶やかで趣深かったことを思い出し、その後もこの場所を通るたび、大きな桂の木が見えなくなるまで、いつまでも振り返って眺めておられるという。
【今朝の円座】
読み始めて、まず思った。
艶っぽい。
さすが兼好さんである。
この女は未亡人だったのだろうか。
そんな想像もした。
しかし兼好は、女がなぜ世間を憚っているのかを説明しない。男と女の関係も説明しない。実体験なのか、聞いた話なのか、あるいは文学として作り上げたものなのかも分からない。
だが、それでよいのであろう。
文章が先に立っている。
フィクションでもノンフィクションでも成り立つ。
すべてを語らないからこそ、その余白から色気が立ってくる。
「余白」。
これは、日本の美学の一つであろう。
そこで、梶井基次郎を思った。
梶井は一個の檸檬という具体を置く。具体を見つめているうちに、それは単なる檸檬ではなくなり、いつしか、その人にしかない世界へと開いていく。
具象が抽象になり、その人の世界へ入っていく。
モランディもそうである。
瓶や壺という、ごく普通のものを描き続ける。ところが見つめているうちに、瓶は瓶でなくなってくる。
瓶と瓶との間。
光。
空間。
沈黙。
そこからモランディの世界が立ち上がる。
私はかつて、それを白磁に求めたことがあった。
白という表面ではない。
釉薬の中間層。
土がある。
釉がある。
火がある。
そこへ光が入る。
その「あわい」に、言葉では説明することのできない世界が現れる。
我が師匠、開高健は、また少し違う。
彼は、具体、具体、具体と、徹底して具体を書き綴っていく。
食べる。
飲む。
釣る。
旅をする。
味、匂い、汗、水、泥。
具体をこれでもかと積み重ねていくと、いつの間にか得も言われぬ抽象の世界へ入ってしまう。
しかも頭では抜けられない。
官能の中へ取り込まれてしまう。
そこが面白い。
言葉には、沈黙が表裏となって存在している。
言葉では表せない。
しかし、表せないから黙るのではない。
言葉を尽くす。
具体を尽くす。
表し、表し、表し尽くす。
すると、その向こう側から、
ピーッと、
言葉ではない何かが立ち上がってくる。
陶芸も同じではないだろうか。
土を尽くす。
釉を尽くす。
火を尽くす。
技術を尽くす。
その果てに、人間が作ったとは言い切れないものが、窯の向こうから現れる。
私は、それを、
「妙」
と呼びたい。
真・善・美という世界がある。
私は、それを三つの円として描いてみたい。
真。
善。
美。
三つの円を重ねると、その中心に、三つすべてが重なる場所が生まれる。
そこに、
「妙」
を置く。
妙は、真善美に並ぶ第四の要素ではない。
三つが重なった中心から現れるもの。
そこに「妙」を置いた途端、一気に次元が変わる。
神の世界。
神の手が、具体を通して現れる。
私が白磁に求めた釉薬の中間層も、おそらくその世界と同じなのであろう。
そして今朝、もう一つ言葉が生まれた。
「色気とは、性が際立つこと。」
男女の色気だけではない。
人の性。
土の性。
釉の性。
火の性。
言葉の性。
余計なものが静まり、そのものが本来持っている「性」が際立つ。
そこに色気が現れる。
これは「綺麗さび」という世界にも通じる。
華美なのではない。
ただ枯れているのでもない。
静けさの中に、そのものの性が消えずに立っている。
窯を知る人は、皆、この**「しづか」**を身体で領解しているように思う。
窯の中は激しい。
火が走る。
釉が熔ける。
土が変わる。
しかし、その激しさを通過し、窯が冷め、扉を開ける。
そこに器が、何も語らず佇んでいる。
激しさを知らない静けさではない。
激しさを通り抜けたあとの「しづか」である。
さて。
第一〇四段は、男女の色気から始まった。
随分遠くまで来てしまった。
男女の色気については、兼好がこの一段に書いたくらいが、ちょうどよいのだろう。
否定もしない。
ありがたがりもしない。
人生の大問題にも仕立てない。
人間には、そんな一夜もある。
そこに人生をかける意味もない。
昭和の「四畳半小唄」のような世界にも、少し似ている。
狭い部屋。
男と女。
夜。
少しの侘しさ。
そして朝になれば、それぞれの暮らしへ戻っていく。
大恋愛として語り尽くさないからこそ、そこはかとなく色気が残る。
そして改めて原文を読むと、兼好自身が最後に書いている。
「艶にをかしかりし」
今朝、最初に感じた「艶っぽい」という感覚は、やはりこの段そのものにあったのである。
夕月。
犬の声。
ほのかな灯。
暮らしの匂い。
雨。
夜深き鳥。
白み始める戸の隙間。
青々とした卯月の曙。
そして、大きな桂の木。
男女そのものを露骨に描かず、その周囲の具体を積み重ねていく。
すると最後に、
「艶」
が、向こうから立ち上がってくる。
今朝の円座で辿り着いた、
色気とは、性が際立つこと。
そして、
真・善・美の重なりの中心に「妙」が現れる。
第一〇四段から始まって、梶井、モランディ、開高健、白磁の中間層を巡り、また兼好へ帰ってきた。
遠くまで行ったようでいて、結局ずっと同じところを見ていたのであろう。
すべてを語らない。
しかし、具体を尽くす。
すると、その向こうから、人間の手では作り得ない何かが、
ピーッと、
しづかに立ち上がってくる。
それを私は、
「妙」
と呼んでみたい。
今日も始める事にする。
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