なるみと読む徒然草 第百十段
双六の上手とは
【原文】
双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、
「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。
いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」
と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。
【現代語訳】
双六の名人と言われる人に、その勝負の仕方を尋ねたところ、
「勝とうと思って打ってはいけない。負けまいと思って打つのがよい。
どの手を打てば早く負けることになるかを考え、その手は避けて、たとえ一目でも負けるのが遅くなる手を選ぶべきだ」
と言った。
道をよく心得た人の教えというものは、身を修めることにも、国を保つことにも、同じように通じるものである。
令和八年九月二十四日。
午前五時十分目覚め。第百十段を予習。
午前六時十分、「なるみと読む徒然草」を始める。
「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。」
ここには、膝を打った。
勝ちたいと思う心には、すでに「いまの自分では足りない」という認識がある。
勝とうと力むより、自分から崩れないこと。
ここまでは、よく分かる。
ところが兼好は最後に、
「身を治め、国を保たん道も、またしかなり。」
と、一気に国を治める話まで持っていく。
ここで、少し笑ってしまった。
双六が上手い人だからといって、そのまま国を任せるわけにはいかない。
麻雀の名人だから、政治まで名人ということにはならない。
双六から国家まで。
少々、飛びすぎではありませんか、兼好さん。
ここまで百十段読んできて、兼好という人が少し違って見えてきた。
深遠な思想家として一言一句をありがたく読むより、日々の出来事を拾い、そこから少し話を広げて読者を「なるほど」と思わせる、昔のコラムニストのように読んだ方が面白い。
満員電車の中で、新聞を細く折りたたんで読む。
その片隅のコラムを読みながら、
「そうそう」
「そこまで言うか」
「また始まったな」
とうふふと笑う。
『徒然草』も、そのくらいでよいのかもしれない。
こちらが少し構えすぎていた。
これからは、もう少しサクサク読もう。
膝を打つところでは膝を打ち、
言い過ぎなら、「言い過ぎでしょう」と笑う。
今日の一言
「双六から国まで行きますか、兼好さん。」
今日は、これでよし。
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