なるみと読む徒然草 陶主日記
第一〇五段 良悪し、入れて今日の、徒然かな。
令和八年九月十九日(土曜日)、晴れ。
岸和田だんじり祭り。
秋のシルバーウィーク初日は、久しぶりの晴れのお天気をいただいて始まった。
さて、今朝は『徒然草』第一〇五段。
昨日の第一〇四段に続いて、男女の匂い立つような場面である。
ところが、読み始めてすぐに感じた。
昨日とは、何かが違う。
第一〇四段には、人肌の温もりがあった。夜の湿り気があり、男女の息づかいまで聞こえてくるような、生々しさがあった。
「兼好さん、なかなかの文章をお書きになる」
そう思わせる一段であり、私は昨日、
「この一段は切り取って、置いておこう」
とまで思った。
ところが今日の第一〇五段。
月があり、松があり、男女がいる。
構図は整い、いかにも王朝文学らしい美しい一場面である。
けれど、整い過ぎている。
どこかで見たような気がする。
「こんなピクチャー、昔、駅前の本屋で売ってたな」
それで終わってしまった。
昨日は、文章の向こうに人がいた。
今日は、文章の向こうに絵がある。
この違いは大きかった。
三木紀人先生の『徒然草(二)全訳注』を開いてみる。
先生は、この段について、兼好の幻想の所産のようにも見えるとしながら、『拾遺抄』や家集との関係を指摘され、最後には、実体験的な素材を表現によって美化したものと位置づけておられる。
さすが、下々とは違って教養がおありになる(笑)。
しかし、その「美化」という言葉を見て、少し納得した。
なるほど。
私が今朝、
「綺麗過ぎる」
「人肌がない」
「出来合いの絵みたいや」
と言っていたのは、案外その辺りなのかもしれない。
第一〇四段は、美しく書いても、まだ化粧の下に人肌が見えていた。
第一〇五段は、美しく仕上げ過ぎて、とうとう一枚の絵になってしまった。
もちろん、これは私の勝手な読みである。
下町の悪ガキで育ち、今日はちょうど岸和田だんじり祭り。
美しいものを真正面から、
「まあ、なんと典雅で、もののあはれに満ちた文章でしょう」
などと言うのは、どうにも照れ臭い。
つい、
「こんなん、駅前の本屋に売ってたでぇ」
と言ってしまう。
岸和田っ子やさかい、シャァないでぇ(笑)。
ひょっとすると兼好自身、第一〇四段がうまく書けたと思ったのではないか。
それで姉妹編のように、もう一枚、美しい恋の場面を隣へ置いてみた。
そんなことまで想像してしまった。
百四段は、匂う。
百五段は、絵になる。
毎日読んでいれば、胸に残る段もあれば、さらりと通り過ぎる段もある。
それでいい。
兼好を偉い先生として仰ぎ見るために読んでいるのではない。
八百年ほど前に生きた一人の人間と、毎朝、円座に座っているのである。
「昨日のは、よかったでぇ」
「今日は、ちょっと綺麗にまとめ過ぎたんちゃうか」
そんなことも言いながら、また明日の一段へ進む。
良いも悪いも、面白いもつまらないも、みんな一緒に抱えて歩いていけばいい。
それこそが「徒然」なのだろう。
今朝の円座は、これにておしまい。
良悪し、入れて今日の、徒然かな。
岸和田だんじり祭りの晴れた朝。
今日も始めることにする。
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