窯元日々雑感 徒然草 第一段再読

窯元日々雑感 徒然草 第一段再読

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フシハラ円座

なるみと読む徒然草 第一段 再読の風景
令和八年九月三十日(水)晴れ。
午前五時四十分、目覚め。
七時、「なるみと読む徒然草」第一段。

昨日から第一段へ戻り、二日目の朝である。
徒然草も、ずいぶん遠くまで歩いてきた。
百余段を読み進めてから、もう一度、最初の一段へ戻ってみる。
すると不思議なもので、初めて読んだときとは、兼好さんの姿がまるで違って見えてきた。

第一段で兼好さんが語るのは、難しい佛道の話ではない。
「男というもの、こんなふうであったらよろしいなあ」
そんな話から始まる。
身分だけではいけない。
姿形だけでもない。
学問があり、和歌を知り、音曲にも通じ、字も書ける。
愛敬があって、言葉は多すぎず、一緒にいて飽きない。

ずいぶん注文が多い。
聞いているうちに、
「兼好さん、それ、だいぶ御自分が入っていませんか」
と言いたくもなる。
考えてみれば、兼好さん自身、才のある人である。
和歌にも通じ、文章にも長け、宮廷社会も知っている。
だから第一段の理想の男には、兼好自身の姿も、うっすら映っているのかもしれない。

才のある人だからこそ、人がよく見える。
良いところも、野暮なところも、すぐ見抜いてしまう。
それが、この人の強みであり、時には弱みでもあるのだろう。
ここまで読んできて、私たちの兼好像も随分変わった。

初めの頃、私は「兼好法師」という人に、佛道を共に語れる先達のようなものを密かに期待していた。
「先達、よろしくお願い致します」
そんな気持ちで読み始めた。
けれど百余段を一緒に歩いてみると、少し違ってきた。
もちろん、無常も、出家も、隠遁も語る。
しかし本格的な仏教哲学を説く宗教者というより、人間と世間を実によく見ている、才の立つ都会の知識人の姿が見えてきた。

世間の中をよく知りながら、そこから半歩退く。
出家、隠遁という立場によって、自分の自由な席をひとつ作った。

いわば、
都会の隠者。
今でいう芸術家や文筆家にも、少し似た位置なのかもしれない。
そこで私たちの座る場所も変わった。
兼好法師を高いところへ置いて、その前に正座するのではない。
かといって、七百年前の学識深い人を茶化しているわけでもない。
同じ高さに座って、話を聞く。
路地裏に腰掛けて、お湯呑をひとつ。

兼好さんが、
「近頃の人というものは……」
と話し始める。
こちらも、
「なるほど。それは面白いですな」
と聞く。
時には、
「いや兼好さん、それは少し言い過ぎと違いますか」
と返してみる。
するとまた、小難しい話が始まる。
それも面白い。
最初は先達だった人が、百余段を一緒に歩くうちに、
時空を越えた、お茶飲み友達になった。
ただし、なかなか侮れない、学識深いお茶飲み友達である。
これくらいの距離が、今の私たちにはちょうどいい。

第一段へ戻って二日。
読み直したのは第一段だけではなかったのかもしれない。
「なるみと読む徒然草」を、これからどこに座って読むのか。
その場所を確かめた二日間だった。

さて、兼好さん。
第一段では、あなたの思う
**「良き男の姿」**を聞かせてもらいました。
これからも、その物差しを少し覚えておきましょう。
そしてまた明日の朝、路地裏の円座へ。
お湯呑ひとつ。
喫茶去。
さて兼好さん、
次はどんなお話を聞かせてくれますかな。

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