なるみと読む徒然草
第四十九段 「佛の道について、急ぎて行ぜんと」
第四十九段は、一見すると「仏道を急いで修めなさい」と説いているように読めます。しかし、今日の円座では、もう一歩深く、その言葉の意味を味わいました。
この段が急がせているのは、悟りでも修行でもありません。
発心です。
しかも、その発心は、単なる求道心ではありません。
仏教でいう発心とは、発菩提心です。
求道心が「私が悟りたい」という心であるならば、菩提心とは、仏のいのちに心が開かれることです。
それは叱咤激励によって起こるものではなく、釈尊が尼連禅河でスジャータの乳粥を受け、中道へと歩み始めたように、無縁の慈悲によって静かに開かれていく世界なのでしょう。
また、仏種という言葉にも話が及びました。
種は、肥沃な土に埋められ、雨を受け、太陽の光をいただき、四季を巡りながら芽を出します。
花が咲き、やがて実を結ぶ。
これは自然の法則です。
仏道もまた、この自然の法則に従って成熟していくものなのでしょう。
「華果同時」という教えは、時空を超えた真理を示します。
しかし、私たちは時間と空間の中を生きています。
だからこそ、人それぞれの因縁があり、人それぞれの暮らしがあり、人それぞれの花が咲きます。
世間は修行を好みます。
けれど仏道は、自我の修行を是とも非ともしません。
人は私を修行者と見るかもしれません。
しかし私には、修行をしているという思いはありません。
好きだから、ただ毎日を過ごしているだけです。
朝、祈り、徒然草を読み、一字一句を書き、土に向かい、友と語り、一日を終える。
その穏やかな暮らしの中に、発心が静かに息づいているのでしょう。
十牛図の最後は、市井に帰る姿です。
悟りを誇る人ではなく、ごく普通に暮らす人。
兼好法師が一貫して見つめているのも、中道です。
そして円座が大切にしている言葉も、ただ一つです。
「普通が一番。」
個性は大切です。
しかし、それを本当に表現したいのなら、「普通」に耐える表現でなければなりません。
器も、言葉も、暮らしも同じです。
毎日使われても飽きないもの。
毎日読んでも古びないもの。
それが、本当の個性なのでしょう。
今日も良く徒然草を読むことができました。
良いお連れにも恵まれ、円座もまた一つ深まりました。
では、今日も始めることにする。
合掌。
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