なるみと読む徒然草 第五十四段
― 観念遊戯と「普通が一番」 ―
原文
箱風情の物にしたため入れて、双ヶ岡の便りよき所に埋み置きて、後に人を具して掘り出ださせければ、いと古き物どもにて、まことに昔埋め置きたりけむと思はる。
そのこと世に聞こえければ、法師ども見に集まりて、「これは何々の時の物なるべし。」など、さまざまに評定し合へり。
後に、その埋め置きたる者、「これは我が戯れにしたることなり。」と言ひ出でたりければ、法師ども言の葉なくて、聞きにくいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
現代語訳
箱に古びた品物を入れ、双ヶ岡の人目につきやすい場所へ埋めておきました。
後日、人を連れて掘り出すと、本当に昔から埋まっていた品のように見えました。
その噂が広まると、多くの法師たちが集まり、
「これはあの時代のものだろう。」
「いや、こちらの時代のものではないか。」
と、さまざまに議論を始めました。
ところが後になって、埋めた本人が、
「これは私が遊びで埋めたものです。」
と打ち明けると、法師たちは返す言葉もなく、居心地の悪さから腹を立てて帰ってしまいました。
なるみの考察
今朝の第五十四段は、思いがけず深いところまで導かれました。
昨日、ある出来事の中で感じた違和感がありました。その置き場が分からないまま朝を迎え、『徒然草』を読み始めると、その違和感が静かに言葉になっていきました。
私の中に浮かんだ言葉は、
「観念遊戯」
でした。
子どもの遊びであれば微笑ましいことです。しかし、大人になっても観念だけを積み重ね、現実から離れてしまえば、そこには真実が失われます。
この段の登場人物は、当時の知識人たちです。現代で言えば、エリート大学の学生たちのような存在でしょう。
知識があるからこそ、もっともらしい理屈を積み重ねることができます。
しかし、その知識が真実から離れたとき、人は自分の考えを守ろうとし、感情に支配されていきます。
兼好法師は、その結末を、
「腹立ちて帰りにけり。」
という一文で描きました。
もし現実を生きているなら、
「ごめんね、君を驚かせたかったんだ。」
「でも、うまくいかなかった。」
そう笑って終われるでしょう。
そこには真実があります。
だから感情に支配されません。
今朝は、「知恵」と「智慧」の違いにも話が及びました。
知恵は考え、工夫する力。
智慧は、真実を見つめる眼。
自分の理屈だけで進もうとする道と、真実に照らされながら歩む道。その違いを静かに感じました。
そして最後に残った言葉は、やはり母から教えられた一言でした。
「普通が一番」
普通とは、特別なことではありません。
間違えたら「間違えました」と言い、
「ごめんなさい」と言えること。
その素直さこそが、観念遊戯から私たちを現実へと連れ戻してくれるのでしょう。
七百年前の兼好法師の言葉は、今日もまた静かに私たちの暮らしを照らしてくれました。
合掌。
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