なるみと読む徒然草 第五十六段
〜沈黙の対話〜
原文
久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。人の身さざのよし・あしき、才ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。
第五十六段は、一見すると「話し方」の心得を説いている段のように見えます。
しかし、兼好法師が見つめているのは、話術ではなく、人の心のあり方なのでしょう。
人は集まれば、自然と世間話が始まります。
それは人間として、ごく自然な営みです。
けれど、その奥には、
「語りたい。」
「分かってほしい。」
「認められたい。」
という「我」の働きも潜んでいます。
兼好法師は、その「我」を静かに見つめています。
仏教には耳施という教えがあります。
耳を傾け、人の話をただ聴く。
評価もせず、急いで答えも出さず、ただその人と共にいる。
すると、人は、自分でも気づいていなかった心を、少しずつ語り始めます。
だから、本当の対話は言葉だけではありません。
私はこれを、
「沈黙の対話」
と呼んでいます。
一見、矛盾した言葉です。
しかし、沈黙は決して無ではありません。
実は、孤独も沈黙も雄弁なのです。
言葉にならないものが、そこには静かに語られています。
互いの孤独を尊びながら、一碗のお茶をいただく。
そこに、美が生まれます。
そして、その沈黙の中に愛を見いだす。
私は、そのような人を**「大人」**と呼んでいます。
月初めの早朝座禅会も、そのような願いから始めさせていただきました。
森の孤独者。
草原の働き人。
町の隠者。
それぞれが朝の静けさの中を歩み、釈尊の瞑想に静かに集う。
しばらく共に坐り、また、それぞれの暮らしへ帰っていく。
私は、そのような風景を思い描いています。
暮らしの中に、このような時間と場所を持つこと。
それが、どれほど珍しく、どれほど尊いことでしょう。
だから最後は、いつもの言葉に帰ります。
普通が一番。
顛倒夢想の世にあっても、静かな暮らしを失わず、一碗のお茶をいただく。
第五十六段は、話し方を教える段ではありません。
人の心の奥にある「我」を見つめ、沈黙の尊さを暮らしの中に取り戻す段。
そのように受け止めることができたなら、兼好法師もまた、静かに微笑まれることでしょう。
言わず語らず、喫茶去。
合掌。
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