令和8年6月15日(月曜日) 窯元日々雑感 徒然草 第十二段 ―― わびしきや わびしきや

令和8年6月15日(月曜日) 窯元日々雑感 徒然草 第十二段 ―― わびしきや わびしきや

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  1. 令和8年6月15日(月曜日) 窯元日々雑感 徒然草 第十二段 ―― わびしきや わびしき「同じ心ならん人と、しめやかに物語して、世のはかなき事をも、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに」と兼好は言う。心の通う人と、たわいない話も、人生の無常も、隔てなく語り合えたらどんなに嬉しいことか。けれど「さる人あるまじ」——そんな人はまずいない、と。

少し意見の違う相手とは、表面的な慰め合いはできても、「まめやかの心の友」には遠く隔たってしまう。この「少し」の違いが、実はいちばん厄介なのだと思う。まったく違う相手なら最初から期待しないが、「少し」似ているからこそ、その隙間が気になってしまう。

「友遠方より来る、また楽しからずや」というが、語らえる人は万にひとつ、あるかなきやというのが実感に近い。

けれど、ふと思う。隔たりを生んでいるのは、「我」を立てて他者を見ているからではないか。他者は自己、自即他——その境地に立てば、「少し」の違いも、隔たりではなく、ただの違いとして軽く見えてくるのかもしれない。

肝胆相照らす、とは言うが、言うは易し。これは求めて得られるものではなく、自己の計らいを超えたところに、初めて生まれるものだと思う。求める限り「あるまじ」、計らいが落ちた時、ふと「ありぬ」となる。

わびしきや、と兼好は嘆く。だがそのわびしさを抱えたまま、ゆっくり熟成を待つ。それもまた、なるみの一つの形なのだろう。

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