徒然草 第八段
- 窯元日々雑感 令和8年6月11日(木)晴
今朝は徒然草の第八段を読みました。
兼好さんはこう言います。「世の人の心を惑わすもの、色欲に勝るものはなし」と。あの久米の仙人でさえ、川で物を洗う女の白い脛をふと見てしまって、空を飛ぶ術を失ってしまった。賢い人も、聖なる人も、この一点だけは心が揺れてしまうものなのですね。兼好さんは静かに嘆きます——「人の心は愚かなるものかな」と。
でも私は思うのです。
色と闘うなかれ、と。
色欲は生命の根本です。闘えば必ず負ける。仙人がそれを証明してくれました。こころの表面で惑うくらいなら、じっと留まっていれば、風のように過ぎ去ってくれることもあります。けれど魂の奥まで掻き乱されるような強欲に苛まれたとき——いかにせん、と問うしかない。それが正直なところです。
出家とは、古代の口減らしでもありました。聖なる動機だけではなかった。一休さんも良寛さんも、出家者の優等生ではありませんでした。一休さんは愛する人を持ち、良寛さんは貞心尼と歌を交わした。それでもこの二人が七百年を越えて人の心に残っているのは、色も欲も全部抱えたまま、それでも美しく生きたからではないでしょうか。
良寛さんはこんな句を遺しました。
裏をみせ表をみせて散る紅葉
隠さない。裏も表も、そのまま見せて、散る。これが晩年の境地だったのでしょう。
齢七十になった私も、正直に申し上げます。
色は匂えど、ちりぬるを。
まだ匂っています。枯れていません。魂はまだ騒ぐことがある。だから今日も轆轤がまわるのだと思っています。
色欲との和解は、まだ先でいい。遊行期まで、この騒ぎを連れていく。それが私の、なるみです。
わびさびという言葉があります。欠けて、錆びて、枯れていく美しさ。それも好きです。でも私が目指したいのは少し違う。
綺麗さび。
色めきながら、品を失わない。裏も見せながら、濁らない。そういう美しさです。
そしてその綺麗さびが、長い時間をかけて自然に熟れていったとき——それをなるみの美と呼びたいと思います。
わびさびは完成した美。綺麗さびは咲いている美。なるみの美は、今もまだ熟れていく美です。
今日も轆轤は回ります。
梅雨の合間の風が、工房に吹き込んでいます。
哲学はもう十分しました。あとは手を動かすだけです。
伏原窯 陶主日記 第八段
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