なるみと読む徒然草 第百十一段
いろいろあって、やっぱり徒然
【原文】
囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふと、或ひじりの申しし事、耳にとまりて、いみじく覚え侍り。
【現代語訳】
囲碁や双六が好きで、昼も夜もそればかりして暮らしている人は、仏教でいう四重・五逆の罪にも勝るほど悪いことをしているように思う――と、ある聖が言った。その言葉が耳に残り、たいそう心に感じられた。
昨日の第百十段に続いて、今日も囲碁、双六の話です。
昨日は双六の上手の言葉を取り上げ、「勝とうとするのではなく、負けないように打て」と、勝負の中に人生の心得まで見ようとしていました。
私は昨日、少し引っ掛かりました。
所詮は賭け事上手。そこまで持ち上げなくてもいいのではないか、と。
ところが今日の第百十一段を読むと、少し収まりました。
ある聖が、囲碁や双六を好み、朝から晩まで、あるいは夜を明かしてまで耽る者について、四重・五逆にも勝る悪事だ、とまで言ったという。
ずいぶん大袈裟な話です。
しかし、大事なのは囲碁や双六そのものではなく、
「好みて明かし暮らす」
というところなのでしょう。
何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。
まして当時の双六は、賭け事でもあります。遊びが暮らしを呑み込み、昼夜を忘れてそこに耽る。その姿を、聖は極端な言葉で戒めたのでしょう。
昨日だけで終われば、少し双六礼讃のようにも見えました。
しかし、今日まで続けて読むと、
上手の言葉には聞くべきものがある。
けれども、それに溺れて暮らすのは別の話だ。
そんな具合に、二つの段が一つに収まってきます。
ここまで徒然草を読んできて、面白いのはこういうところです。
僧侶の色狂いを描いたかと思えば、徹夜の双六を取り上げる。人の姿を一枚のポートレートのように描くこともあれば、当時の世相を切り取るジャーナルのような段もある。誰かの格言をそのまま書き留め、それがこちらにはどうもしっくり来ないこともある。
世相を斬る。
世相の哀れを観る。
耳に残った言葉を書き留める。
時には少し言い過ぎる。
いろいろあって、やっぱり「徒然」なのでしょう。
百十一段まで来ると、こちらも兼好に随分慣れてきました。
以前なら、
「爺さん、何言うてるねん!」
と力んで突っ込んでいたところも、今では、
「まあ、いいんじゃないの」
くらいで読めるようになりました。
原文にも少しずつ馴染み、現代語訳を通さなくても、兼好の言っていることがそのまま入ってくるようになってきました。
もう少しで五合目。
お彼岸も過ぎ、季節は秋本番。泉州では、これからだんじりの賑わいが増してきます。工房も秋の器に急かされ、その向こうには年末年始の仕事が見え始めました。
徒然草を読む季節と、器を作る季節が、一緒に進んでいます。
今日の一言。
「いろいろあって、やっぱり徒然。まあ、いいんじゃないの。」
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