なるみと読む徒然草 第二段
令和8年10月1日(木) フシハラ円座
正法寺の早朝座禅会から帰宅。
仏前で朝の勤行を済ませ、午前8時、フシハラ円座。
十月最初の『徒然草』は第二段から始まった。
兼好は、昔の聖代の政治を忘れ、民の憂いや国の損なわれることにも心を向けず、自分の身辺ばかりを華美に飾る人を厳しく戒める。
そして、
「あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」
と記す。
ここから今日の円座が始まった。
私の座右の銘の一つに、
「過ぎたるは及ばざるが如し」
がある。
何も持つなということではない。
美しいものを否定することでもない。
足るところを知って、過ぎないところに身を置く。
そこには「余白」が生まれる。
器も、描き尽くしてしまえば息苦しい。
暮らしも、物や予定や思いで埋め尽くしてしまえば息苦しい。
暮らしは余白の美をもって、うまし。
話はそこから、「預ける」「頂く」という暮らしへ進んだ。
自我がなくては、この世の暮らしは成り立たない。
だからといって、すべてを自分で握りしめて生きるのも苦しい。
一旦、佛側に預ける。
そして、そこから頂く。
多い少ないは、向こう様任せ。
ここでいう「ある」も、単に物質が存在する、所有している、という意味だけではない。
今日という一日も、飯も、水も、人との縁も、目の前にある世界そのものも、頂いたものとして暮らす。
だから「もったいない」。
それは吝嗇から出る言葉ではない。
頂いた世界を粗末にしない、という暮らしの姿勢である。
そして私は、これは仏教、儒教、神道という個々の教えを越えて、この島で先人たちが長く営んできた祈りの生活ではないかと思っている。
さらに遡れば、「森の生き方」とでも呼びたい感覚がある。
あるものを頂く。
取り過ぎない。
使わせてもらう。
自分ですべてを支配しない。
もちろん、これらをそのまま鎌倉末期の兼好の思想として『徒然草』第二段に読み込むつもりはない。
兼好の文章は兼好の文章として読む。
しかし、その一文を縁として、自分の暮らしへ戻って考えてみる。
それが「なるみと読む徒然草」であり、フシハラ円座なのだろう。
今日の第二段から残った言葉。
足るところを知って、過ぎないところに身を置く。
そして、
暮らしは余白の美をもって、うまし。
十月最初の円座。
短い第二段から、ずいぶん根っこのところまで話すことができた。
今日は、このくらいで。
フシハラ円座 終了。
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