なるみと読む徒然草
第五十七段 学ぶ人の姿
人の語り出でたる歌物語、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。
【現代語訳】
人が語る歌物語も、肝心の歌が良くなければ意味がありません。少しでもその道を知る人なら、軽々しく語ろうとはしないものです。どんなことでも、よく知らないことを知ったように話す姿は、聞いていて気まずく感じるものです。
学ぶ人の姿
この段を読みながら、若い頃の自分を思い出しました。
人は誰でも、少しでも自分を良く見せたいと思うものです。私もその場を繕い、知っているように話したことがありました。
けれど、土に学び、人に学び、古典を読み続けるうちに、一つのことが分かってきました。
本当に学ぶ人ほど、「知りません」「教えてください」と言えるようになるのです。
今日の対話の中で、一つの言葉が生まれました。
「謙虚さは、なるみの種を育てる人です。下がって、下がって、がなるみの肥です。」
私の勉強の方法も、実はそこにあります。
その場に溶け込むこと。
自己を下げること。
すると、その場そのものが先生になります。
天地が先生となり、人間(じんかん)が先生となり、草木も、友も、日々の出来事も、みな学びの師となります。
だから、生涯書生なのでしょう。
学校には卒業があります。
けれど、暮らしの学びには卒業がありません。
徒然草を皆で輪読し、それぞれが暮らしに照らして語り合う。
その中で、誰かが先生になるのではなく、その場そのものが先生になっていく。
それが私の願う学びの姿です。
兼好法師は第五十七段で、「知識」ではなく「学ぶ姿勢」を私たちに残してくださいました。
今日もまた、その教えを胸に、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。合掌。
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