なるみと読む徒然草 第五十一段
原文
亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたづらに立てりけり。
さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るる事、めでたかりけり。
万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。
陶主日記
「その道を知れる者は、やんごとなきものなり。」
今日、この一文を味わいながら、第五十一段を読みました。
一般には、「やんごとなき」を身分の高い人と説明することがあります。しかし、段全体を読み返してみると、兼好が見つめているのは身分ではなく、その道を知る人の尊さではないかと思えてきます。
水車は、知識だけでは動きません。
土地を知り、水の流れを知り、長年の経験を積み重ねた者だけが、本当に役立つものを生み出すことができます。
兼好は、その事実を静かに見つめ、
「その道を知る者は尊い。」
と結んだのでしょう。
この一段を読みながら、鎌倉末期という時代の姿も浮かび上がってきました。
律令社会がゆるやかに姿を変え、知恵や技術が朝廷や寺社だけでなく、人々の暮らしの中へと育っていく時代。
名もない職人や里人が、それぞれの土地で知恵を磨き、技を育て、社会を支えていく。
私は、その人々を**「草民」**と呼びたくなります。
政治が先に時代を変えるのではありません。
人々の暮らしと意識が育ち、その積み重ねが、やがて時代を動かしていく。
兼好は、その静かな変化を見つめ、『徒然草』に書き留めたのではないでしょうか。
だから『徒然草』は、古典である前に、
時代の生命を、次の時代へ手渡す書。
私は、そのように読んでいきたいと思います。
兼好の言葉に耳を澄まし、今日という一日の暮らしに照らし合わせる。
その積み重ねが、私にとっての**「なるみと読む徒然草」**です。
七百年前の兼好と、今日を生きる私が、円座を囲んで語り合う。
そんな静かな時間を、これからも一段一段、大切に育てていきたいと思います。
合掌。
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