窯元日々雑感 ── 徒然草第十一段

窯元日々雑感 ── 徒然草第十一段

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窯元日々雑感 ── 徒然草第十一

令和八年六月十四日(日曜日)曇り 午前六時三十分

今朝も坐禅を終えてから、岩波文庫『徒然草』を開いた。第十一段。

神無月のころ、栗栖野という所を過ぎて、ある山里を訪ねた折のこと。苔の細道を踏み分けてゆくと、心細げに住みなした庵があった。聞こえるのは、木の葉に埋もれた懸樋から落ちる雫の音だけ。閼伽棚には菊や紅葉が折り散らされていて、人が住んでいる気配が、ほのかに伝わってくる。

兼好はそれを見て、「こうしてでも暮らしていけるものなのだなあ」と、しみじみとした趣を感じる。ところが、ふと庭の向こうに目をやると、大きな柏子の木が一本、枝もたわむほどに実をつけていた。その木の周りだけ、厳重に囲いがしてある。それを見て、兼好は少し興がさめてしまい、「この木がなければよかったのに」と思った、というのである。

一字 閑

木の葉に埋もれた懸樋の雫だけが音を立てる、庵の静寂をあらわす一字。

一句

柏子垣 囲ひて庵の 閑を断つ

なるみのことば

「住みなし」の風情は、人の手が完全に行き届かぬところに生まれる。閼伽棚の菊・紅葉は、住む人の心が自然と添えられた跡。されど柏子の木を厳重に囲ったとき、その「なるみ」は止まってしまう。

ものを大切にすることと、ものを守ることの間には、わずかな、しかし確かな違いがある。守りすぎれば、そこにあった時間の流れ──木が枝をたわめ、実を結び、誰かに採られ、また実を結ぶという循環──が止まる。

工房の道具も器も、使われ、時に欠け、それでもまた手に取られることで「なるみ」を続ける。囲い込んでしまえば、それは資産にはなるが、もう「育つもの」ではなくなる。

囲いを完全にするか、すべて開け放つか──その間の「半分半分」というところに、心の置きどころがあるのかもしれない。社会との接点、煩わしさとの向き合い方は、一度整理がついて終わるものではなく、その時々で加減を探り直す、続く課題なのだろう。

これ以上は、語り過ぎぬのがよい。

唇寒し秋の風

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