なるみと読む徒然草
令和八年八月九日(日曜日)薄曇り
第六十五段
この比の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。
古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。
今日の段は、わずか二行。
「近頃の冠は、昔よりずいぶん高くなった。古い冠桶を持っている人は、その縁を継ぎ足して今も使っている。」
ただそれだけのことが書かれている。
けれど、今の時代に読むと、この二行の奥には深い世界が詰まっているように感じられる。
とりわけ心に残ったのは、「古代の冠桶」という言葉だ。
「伝統」と言えば、どこか概念的に聞こえる。守るべきもの、残すべきものと、後から意味づけされた言葉のようにも思える。
しかし兼好は、ただ「古代」のものとして日常の中に置く。
昔の道具が、少し手を加えられながら今なお使われている。古代と今が、断絶することなく地続きにあるのだ。
そこには、「伝統を守る」という大げさな意識さえ必要なかったのかもしれない。
昔からあるものを、今の暮らしの中でそのまま使い続ける。
「はたを継ぎて、今用ゐるなり。」
この一文の中に、時間の厚みが静かに宿っている。
時間は、過去から未来へ一直線に流れるだけではない。
古いものに再び出会い、そこに今の自分の経験が重なる。同じところへ帰ってきたようでいて、少し違う高さに立っている。
それは、螺旋を描く時間だ。
七百年前の兼好が「古代」を見ていた。
その兼好の言葉を、令和の今、私たちが読む。
古代、兼好の今、そして令和の今。
時空が螺旋のように重なったとき、時を超えた静かな座(円座)が成り立つ。
なるみとは、螺旋する時間の中で、古いものが新しく姿を現すこと。
完成された概念ではなく、読むたび、暮らすたび、少しずつ育っていくもの。
今日の第六十五段から、「なるみ」に新しい芽がひとつ出た。
暮らしを概念化するのではない。
伝統を守るのでもない。
ただ「なるみ」を生きる。
今日は、ここで言葉を止めたい。
二行の短い段から、時間と暮らしが静かにつながった朝だった。
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