窯元日々雑感 徒然草 第六十三段

窯元日々雑感 徒然草 第六十三段

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なるみと読む徒然草

第六十三段

令和8年8月7日(金曜日)晴

午前5時10分起床

​後七日の阿闍梨、武者を集むること、いつとかや盗人にあひにけるより、宿直人とて、かくことことしくなりにけり。一年の相は、この修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵を用ゐむこと、おだやかならぬことなり。

​国家の安寧を祈る「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」。

その導師である阿闍梨が、いつの頃からか盗人に遭ったことで、警護の武者を置くようになったという。

一年の吉凶は、この修法のありさまに現れるとされていた。

その祈りの場に、ものものしく兵を用いることは穏やかなことではない、と兼好法師は記している。

​短い一段であるが、ここには人間の抱える矛盾が静かに示されている。

​人は平和を願う。

しかし、その平和を守るために武力を備える。

安寧を祈る場に、兵が立つ。

​祈りと武力。

安心と恐れ。

守ることと、脅かすこと。

​この矛盾は、兼好の時代だけのものではない。

今や国と国との問題となり、その力は核兵器にまで及んでいる。

​何によって平和は維持されるのか。

この問いに不器用に言葉を挟めば、「持つか持たないか」「正しいか間違っているか」と、たちまち分断が生まれてしまう。

​兼好法師は安易に答えを出さず、ただ、

「おだやかならぬことなり」

とだけ置いた。

​そこにあるのは断罪ではなく、深い悲しみである。

安寧を願いながら、兵を置かずには安心できない。

​平和を願いながら、互いを滅ぼす力を手放せない。

その人間の業(ごう)と悲しみを、矛盾のまま見つめているのだ。

​裁くことなく、現実から逃げることもなく、共にその矛盾を抱えて佇む。そこに慈悲のありようを感じる。

​この段にも、そっと小さな灯火が置かれている。

どちらの極端にも偏らず、かといって現実から目を背けることもなく、矛盾を矛盾のまま受け止めること。

心を乱し尽くさず、均衡を保ちながら今日を生きる。

そこに、仏教の「中道」の教えが静かに息づいている。

​心穏やかに、普通に生きる。

その「普通」とは、何も考えずに暮らすことではない。

時代の矛盾を知り、人の悲しみを抱えながらも、それでも祈り、働き、人と交わり、目の前の暮らしを丁寧に営むことである。

​徒然草を読み始めて、二か月が過ぎた。

一日の始まりに古典を開き、言葉を交わすことで、自分の中の世界が少しずつ形づくられていく。

生きる指針が立ち現れ、足元に一本の道が見えてくる。

​ここには、特定の誰かが集まっているわけではない。

けれど、ひとりで読むだけの独り言にもならない。

自分と徒然草との間に兼好法師のまなざしがあり、七百年を越えた人間の声が響いている。

​ひとりで読むけれど、ひとりではない。

自分の言葉で語るけれど、独語にはならない。

​社会の矛盾を抱えて生きる術を、徒然草は一段ずつ、静かに示してくれている。

​今日もまた、佳き大人の輪読会となった。

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