なるみと読む徒然草 第四十一段
令和八年七月十四日(火)晴
陶主日記
午前六時十八分起床。お通じあり。昨夜、今年初めてクーラーを二十六度に設定して就寝。よく眠れ、快眠であった。
本文
五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりければ、各々馬より下りて、埒の際に寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる棟の木に、法師の登りて木の股についゐて、物見るあり。取り付きながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒す事、度々なり。
これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれものかな。かくあぶなき枝の上にて、安き心ありて眠るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす、愚かなること、なほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにて候ふ。愚かに候ふ」と言ひて、皆後ろを見返りて、「こち寄らせ給へ」とて、場所を空けて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当たりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
一字 醒

一句 人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

陶主の言葉
理と情。皆、情あり。人が集まれば色々な欲の世界が現れるが、それも我のこころの有様から。嘲る人もいれば、席を空ける人もいる。それを同時に平等智で見るのが、仏道に勤しむ姿である。法師は判断しているようで、していない。ついつい口をついて出た一言だったのだろう。群衆の中へ行くこと自体、御縁である。この時代には、それを聞いて心を動かす人々がいた——末法の今、同じ言葉が通じる場所は少ない。
木に登り居眠りする人、それを嘲る人、独り言ちる法師、それを聞いて心動かす人。皆、同じ縁に居合わせ、同じ光に逢うている。平等の声。
なるみのことば
言葉は、宛先を選ぶ。
届く場所でしか、届かない。
それでも、口をついて出る。
木石ではない。
だから、感じる。
木に登った人は、もういない。
声も、もう聞こえない。
それでも今朝、
同じ場所に、光が差した。
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