なるみと読む徒然草 第三十九段
令和八年七月十二日(日)晴 午前七時七分起床
或る人、法然上人に、「念仏の折、睡魔に襲われて行を怠ってしまいます。この障りをどう止めればよろしいでしょうか」と尋ねた。上人は「目の覚めている間、念仏なさいませ」とお答えになった。深く尊く、人々はこれを有難がった。
障りを除く方法を問われて、障りを除く方法を答えていない。それでいて、この短い問答は人々に深く尊ばれた。
博之さんの読み
「質問された人は嬉しかったでしょうね」——そこから対話が始まった。
博之さんご自身、母方は浄土教、父方は曹洞宗という家に生まれ、近くの西福寺と共に、幼き日より浄土の世界の中にあったという。特別な行として構えたのではなく、暮らしの中に既に在るものとして。
そこから語られたのは、「既に救われた状態で申すお念仏」という読みであった。法然上人の答えは、障りを取り除く方法などではなく、平易な言葉で、既に救われてあることそのものを説いている。信仰は生きてそこにおわします。祈りと応えの間に隔たりはなく、即祈り即応え。これが慈悲の世界である、と。
一字
信

一句
月の光は遍く届くがごとく

「く」の音が三度重なる。あまねく、届く、ごとく。推敲の末、この重なりをそのまま残す判断がなされた。遍く届く光の、途切れぬ連なりが、音にも映る。
陶主日記
令和八年七月十二日、日曜日。晴。午前七時七分起床。
徒然草第三十九段、法然上人の答えを読む。目の覚めている間に念仏なさい、という平易な一言。今朝はこの一言の奥に、既に救われた者が申す念仏のすがたを見た。
母方は浄土教、父方は曹洞宗。近くに西福寺あり、幼き日より神仏集合の世界の中に身を置いてきた。それは選び取った信仰ではなく、生まれながらに在ったものである。
信仰は生きてそこにおわします。祈りと応えの間に隔たりなく、即祈り即応え。これこそ慈悲の世界であろう。
月の光の遍く届くがごとく。
一字、「信」。
なるみのことば
障りを問うた人に、障りを問い返さなかった。
目覚めているなら、そこに念仏はある。
既に、という言葉の重さ。
求める手前で、もう応えは届いている。
この記事の関連キーワード



