窯元日々雑感 徒然草 第四十二段

窯元日々雑感 徒然草 第四十二段

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令和8年7月15日(水曜日)晴

午前6時40分起床

今日も生きてます。ゲートタワーの写真を撮る。

夏の爽やかな空、筋雲が天女の架け橋のようで、こころを洗う

なるみと読む徒然草 第四十二段

唐橋中将の子、行雅僧都という気の利いた僧、年を経るにつれ鼻の中がふさがり、息も出で難くなる。療治すれど悪くなる一方、目・眉・額まで腫れ、二の舞の面のように、鬼の顔のようになった。目は見えず、坊の内の人にも見せず籠りて、なほ長く生きて、後に死ににけり。

「かかる病もある事にこそありけれ」

この一文の温度から、今日は「縁起」の話に至った。表に見える病の姿は、個人一人のものに見えて、我々に計れる深さではない。仏道の習わしに「代受苦者」という観方あり――一人の病が、一人だけのものではなく、誰かの、あるいは多くの者の苦を代わりに受けているとする観方。

信仰者なら、ただ、静かに手を合わすだけ。

一字 観

観

一句 問わぬこころの静けさに 光射す

今日の一句

工房にて揮毫。

なるみのことば

鬼の貌になっても、光は差した。

問わないこころだけが、それを見た。

籠った部屋の暗さも、

誰かの代わりに引き受けた重さも、

言葉にはならない。

ただ、手を合わせる影だけが、そこに残る。

陶主の言葉

第四十二段。行雅僧都の病を読みながら、縁起と代受苦者について思いを致した。表に見える姿だけでは、その深さは計れぬもの。信仰者はただ静かに手を合わすのみ。籠った暗がりにも、光は届いていると信じたい。

けり。

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