なるみと読む徒然草 第三十五段
令和8年7月8日 薄曇り
本文
「手のわろき人の、はゞからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。」
一字 書

一句
つれづれの
書と向き合い
梅雨の空

陶主日記
朝、徒然草第三十五段を読む。「手のわろき人の、はゞからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。」
わずか一文である。だが今朝はこの一文が、ずいぶん遠くまで連れて行ってくれた。
字が下手なら下手なまま出せばいい。それを隠そうとして人に書かせることこそ、うるさい――兼好はそう言う。読みながら、ふと思った。これは書だけの話ではない。取り繕うことの醜さは、書にも、絵にも、器にも、そして人の生き方そのものにも通じているのではないか。
自分を隠して、いったい何を生きるというのか。
そこまで考えが及んだとき、頭に浮かんだのは今の世の黒塗りの公文書だった。国民に真実を語れない文章。誰の手によるものかも分からぬまま、ただ塗りつぶされた紙。兼好の生きた時代もまた、正統性が絶えず揺らいだ動乱の時代であったという。あの時代の「偽り」への静かな眼差しが、七百年近い時を超えて、今朝もまだこちらを見ている気がした。
字はその人である、と改めて思う。上手いか下手かではない。晒すか、隠すか。それだけが問われている。
梅雨の空はまだ晴れない。今日も、書と向き合う一日にしたい。
なるみのことば
隠れた文字より、
はゞからぬ拙さの中に、
人はいる。
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