陶主日記 なるみと読む徒然草
令和8年7月5日(日)
午前6時30分起床
第三十二段
精読
九月二十日の頃、ある人に誘われたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。よきほどにて出で給ひぬれど、なほ事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見あたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。しかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。やがてかけこもらましかば、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。
一字
滲(にじむ)
輪郭を持たず、境を越えて広がっていく文字。今日の段が語ったのは、まさにこの動き——見る人と見られる人の境、意識と無意識の境、生と死の境が、線ではなく滲みとして在ったということ。墨が紙に染み入るように、けしきもまた、時を越えて滲み出てゆく。

一句
月見しは 誰が目にありや 滲む秋

散文
九月二十日の頃、ある人が誘われて月を見歩き、忍んで人の家を訪ね、頃合いを見て去った。それだけの話であれば、ただの風流譚で終わったはずである。
けれども、去った後、なほ月見るけしきなる人があったと聞く。見送る人の目に、月を見るその人の姿だけが残っていた。当人はそれを知らない。知らぬまま、ほどなく世を去る。
輪郭を持たぬまま、けしきだけが誰かの内側に留まり、言葉に掬われ、七百年を経て今日ここに届く。存在を証立てるのは、名でも、経緯でもない。ただ、滲んで在ったという事実だけである。
なるみのことば
消えぎわの灯りに、名はいらない。
陶主日記
垣間見も、見られることも、大らかに受け止められていた時代。境界は線ではなく、滲みとして在った。意識と無意識、生と死、記憶と存在——どれも薄い一枚の戸で隔てられているに過ぎない。
蛍の灯りも、点る時より消え入る時にこそ、我を忘れる美しさが宿る。同じ理で、この段の「けしきなり」も、輪郭をぼかしたまま留め置かれたからこそ、七百年後の今も、いとあはれとして心に迫る。
この記事の関連キーワード



