令和8年6月17日(水)晴  窯元日々雑感——第十四段「和歌こそ」

令和8年6月17日(水)晴 窯元日々雑感——第十四段「和歌こそ」

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令和8年6月17日(水)晴

窯元日々雑感——第十四段「和歌こそ

午前五時三十分、目覚める。徒然草を開く。第十四段、兼好法師が和歌の妙について語る段である。

和歌こそ、なほをかしきものなれ。

身分の低い者の所業も、恐ろしい猪も、「ことば」といううつわに入れれば美しくなる。兼好はそう言う。

ことばとは、世界の見え方を変える力を持つものだ。

しかし兼好はすぐに嘆く。近ごろの歌には、言葉の外に漂う「あはれ」がない、と。

「あはれ」とは何か。

説明しきれないものが、言葉の向こう側に滲み出ている状態である。貫之の歌がそうだった。技巧ではなく、その人の魂が言葉の外に漏れ出ていた。

これは誰もが至れる場所ではない。

焼けた陶器の素肌に哀れが宿ると言うものでもなく、意図して作れるものでもない。その人による、としか言いようがない。

では古歌はなぜ「やすく、すなほ」なのに深いのか。

同じ言葉、同じ歌枕を使っても、昔の人の歌はまったく別物だと兼好は言う。

それは技術の差ではない。

人は時代が進むに、卑しくなる。

これは道を歩む者の定説である。古の歌人は、道を歩む者だった。その歩みが言葉の外に滲み出た。

自然はその方の鏡だからである。

澄んだ人が見る自然は澄んで映る。その自然を詠んだ歌には、詠み手の魂がそのまま宿る。「やすく、すなほ」な言葉の奥に、その人の生き様が透けて見える。だから深い。

では、人が卑しくなると知りながら、なぜ四十年、窯の火を絶やさなかったのか。

希望です。

絶望の認識の上に、静かに希望を置く。これは楽観ではない。現実を深く見た者だけが持てる希望である。

兼好も同じだったかもしれない。人が卑しくなると嘆きながら、それでも筆を置かなかった。誰かに読まれることを、信じていた。

七百年を隔てて、同じ希望が灯っている。

土は正直である。手のこころをそのまま受け取る。五十年、自然と向き合い続けた手が土に触れるとき、土はその五十年を映す。

器は、作り手の鏡。

「こころをかたちに」——四十年前に掲げたこの言葉の底に、ずっと希望があった。

【今日の一字】

鏡(かがみ)

自然はその方を映す。土はその手を映す。ことばはその魂を映す。

【今日の一句】

夏暁や 自然うつせる 土の肌

伏原窯 陶主 博之

なるみ 記

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