2008年 11月 の投稿一覧

原点回帰

独立して初めに作った窯は、壁の厚みが25センチもある、それもSK34番の耐火煉瓦で、30時間位掛けて焼く体力勝負の窯でした。この窯で実にすばらしい釉調の作品を多く焼くことが出来ました。また窯が冷めるには、まるまる2日以上かかり、徐冷がしっかり効いて釉薬が自然と柚子肌になってくれました。特に素地がしっかり焼けてくれるので、昔ながらの焼き物本来の焼きが実現されました。この窯の灯油の量はドラム缶一本でした。それでもすべてが焼き上がることはなく、温度差は軽く100度位出来ました。その温度に合わせるため、土を何種類も変え、またその土に合った釉薬も多く調合し色々な焼き物が一つの窯で焼けるということになりました。

しかしこの窯のおかげで多くの事が学べました。今の時代では出来ない素晴らしい作品を、若い年齢にも関わらず作ることが出来たことは今の自信に繋がっています。

ookama.jpg 振り返れば今までに色々な窯を焼いて来ました。鉄砲窯、登り窯、瓦斯窯、電気窯、灯油窯、穴窯、等々。色々な窯で色々な火を体験してきました。そこで数々の作品を見て来ました。その経験が今生かされています。一目見ればどの様な土でどのように焼いたか、かなり誤差がないくらい分かる様になりました。

この様な経験から、乾山を作るにはどうしても窯を変える必要が出てきました。それでないとスッキリした筋道が立たないように思うからです。なんと焼き物って複雑なのでしょうか。世間に広く出回っている物に、筋道が違うまま色々な写しといって焼いている物が多くあります。故にこれが乾山(?)が横行するのでしょうが。どうしても私は譲れないところです。

この様な事を考えていると、面白いことに自分が原点へ戻って行く様に思えるのですが。

窯の中の風景

これから寒くなってくると窯場はほっこりと暖かくて気持ちが良いですね。今回の窯はいつもより時間が掛かってしまいました。原因は天井近くまで作品を置いた事にあると思います。私たちが今使っている窯の形式はシャットル式と云って、いったん火を立ち上げ天井に添わせてから根(窯の底面)に開けてある引き穴から煙突に火が抜けて行くように作られています。そこに天井近くまで作品を置くと火の回りが悪くなり温度が上がりにくくなります。由って燃料もずい分とかかり、効率が悪くなるということです。大きな窯でも小さな窯でも原理は同じことなので基本は外してはいけませんね。


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私どもの窯は素地をたまご色にほんわかと焼くのが特徴です。薄い素地に色絵付けを施すので柔らかな色合いが好まれます。1230度付近になると窯から色見を取り出します。どの位焼けたかを見るためです。色見は全部で4個入れて置きます。1200度で一度出し、また機会を見ながら何回かに分けて見るようにしています。

想定した温度が来ると今度は「ねらし」といって窯の温度をならす様な焚き方に変えます。窯は上と下、奥と手前で温度が違います。そこでねらしという焚き方をして全体を包むように温度を揃えます。天と根の温度が揃いだすとねらしが完了し、そこで火を止めます。 窯の中はいつ見ても神秘的です。火を止め、中を見るとそこは1200度の高温の世界です。ここは神々しいまでに静寂の光に包まれています。釉薬の表面が波ひとつない湖面の様に平らかで、太陽の輝きを受けたように光に照り映えています。作品はまるで地球を超え太陽の世界に行った様にも思えて来ます。窯が冷え作品を出す頃になると、作品達が異次元から戻って来たという思いになるのです。陶芸ならではの感触ですね。 一つ一つ積み上げ作ったものを宇宙に捧げ、審判を仰ぐという感覚です。大変精神性が問われる世界だと思っています。一点の曇りもないどこまでも澄んだ透明な世界の表現は、今のこの世には奇跡の様に思われます。しかし芸術というものがあるのなら、そこに身を呈してこそ初めて表現が許される世界だと思っています。

仁清と乾山

仁清茶壷 乾山はあまり雑器を作った形跡はありませんが、それはなんせ莫大な財産を受け継いだのですからその必要性がなかったのでしょう、仁清は色々と雑器を作っています。後世に残る茶壺や茶入れ、抹茶碗に香合、水差しなどは公家、大名、寺社からの注文品で、普段は雑器に属するような器を作っていたと思われます。

仁清にしてもまた乾山にしても一人では到底窯の維持はできなかったので使用人を何名か使っていました。仁清はもともと轆轤の達者な方で、茶入れなどを見ると実に柔らかなまた美しい独特の優美なラインで作られています。京の雅さが十分伝わる傑作も多くあります。

一昨年京都国立博物館で開催された「京焼展」には仁清をはじめ、乾山、粟田焼等の古清水、近世の名工、木米、頴川、仁阿彌、永楽等々が出展されて大変見ごたえのある、面白い展示会でした。その中でも一番広く展示コーナーを設けて仁清の多くの有名かつ国宝の品々が展示されていました。

これは私の見解ですので根拠のある話では今のところないのですが、敢えて言うと仁清作とされているものの中にはすべてとは言わないまでも、例えば茶壺、また小物の香合などは専門に作る窯があって仁清はそこに注文をしていたのではないだろうか、と思うのです。確かに茶入れ、抹茶碗、香炉などは仁清自らの轆轤とみられるものが多いのですが、どうも総合的に考えても一人の手に負える様な作品の数と質ではないように思います。

仁和寺の金森宗和との関係も、全て仁清が手掛けたというよりも、近在の窯屋に得意な物を振り分けていたのではないかと私は思っています。
いわば総合プロデュース的な存在も兼ねていたと考えると、あの質と量が納得できるのですが。

そういう目で先の展覧会を見てみると新しい仁清像が浮かび上がって来ました。そしてその後の京焼きの基礎も仁清の当時のプロデュースでかなり出来上がっていたのではないでしょうか。古清水と称される多くの窯もその範疇の外に出ることはなかったように思われます。

仁清を深く味わっていく中で多くの発見が生まれてきました。機会をみて、魯山人の仁清を見ていた眼についても考えてみたいと思います。

オーダー「蛸唐草湯呑」、焼き上がりました。

蛸唐草湯呑こんばんは。工房は昨日の窯が午後4時の段階で160度まで温度が
落ちていたので窯出しをすることにしました。
1300度まで今回は温度を上げました。窯の上から下まで思った様に
きれいに焼き上がっていました。
蛸唐草のお湯呑みです。スッキリと難なく焼き上がっています。 

巨匠 乾山

巨匠乾山について自分なりの考えや創作側の思いなどを書いてみたいと思います。昨日も出てきましたが、京焼の元祖的存在に野々村仁清が居ます。御室仁和寺の庇護の元、御庭焼として金森宗和の指導の元、唐物でも高麗物でもない、それまでになかった純日本趣味の陶器を創造しました。技法は多種に及んでいて、その一つひとつの作品は完成度が高く、優雅で緻密、雅の趣が存分に表現されています。また陶器に上絵を施したのは日本では仁清が初めてでしょう。中国には磁州窯系の宋赤絵、ベトナムの安南赤絵などがありますが五色を使い日本の色絵陶器を完成させたのは仁清が初めてでしょう。

緒方乾山

鳴滝泉谷で窯開きをしますが、そこは都の北西(乾の方角)に位置ところから窯名を乾山としました。乾山陶器は窯の移動もあって、大きく三期に分けられます。ひとつは鳴滝泉山の開窯期、元禄12年(1699)37歳より、13年間これを鳴滝時代と呼ばれています。正徳2年(1712)50歳で二条通寺町西入丁字屋町に移ります。この時代を二条乾山といいます。晩年、乾山は江戸に移り住みます。その理由は定かではないが、二条家とも非常に近い上野寛永寺輪王寺宮であった公寛法親王(こうかんほっしんのう)に随って、下向したのではないかとするせつが有力です。この時代、江戸入江に住み御用品を焼いたとされ、これを入江乾山といいます。

時代によって大きく陶器の趣が異なってきますが一貫して乾山陶器の特色は、今までにない文人趣味の、また非常に優れた才能あふれる日本文学の教養が結晶した得意稀な作品だということです。二条に移り乾山は当時流行していた懐石の器を斬新なデザインで創造していきますが、今の私共には到底計り知れない教養に裏打ちされてのデザインだと感じられます。

巨匠乾山翁をこれからも考えて参ります。

磁器-窯たき

蛸唐草下絵

実りの秋、山の木の実が色づきだしました。銀杏はいち早く落葉し出しています。山々はこれから美しさを増していきます。  

工房は昨夜から窯を焚いています。磁器の窯なので1300度近くまで温度を上げていきます。久しぶりの還元焼成で午後3時40分に窯が終了しました。

 

写真は、今窯に入っております、オーダーメイド「蛸唐草のお湯のみ」です。

祥瑞(しょんずい)

室町から江戸期、古く茶人の間では染付の作を古染付、呉洲、祥瑞などと唐物(当時の中国を日本ではそう呼称していました。)の染付磁器を総称してその様に呼んでいたそうです。祥瑞がいつ何処で作られていたかは、はなはだ推理の中ですが明末崇禎の頃(1628-44)、所は景徳鎮とされています。意匠があまりにも日本人好みなこともあり日本からの注文産だとされています。では誰が注文したのでしょう。ずばり小森遠州かそれらに近い筋のものとされています。ところで祥瑞の名前の由来は器の底に「五良大甫 呉祥瑞造」の銘があるのっで、そこから由来しているということです。色々な見解がありますが概ね上記の説に落ち着いているということです。形は茶碗(沓型、筒型、胴〆、洲浜等)、茶入れ、香炉、香合、火入れ、巾筒、等茶器の他にも鉢などの食器があります。

渦祥瑞鉢

秋の好日

美男鬘菊薫る秋にふさわしい好日が続きそうな三連休です。文化の日を迎え各地で催しものが行われています。ここ貝塚も市民文化祭が市民ホール・コスモスシアターで行われています。わが陶芸クラブの諸子方の作品も出品しています。お近くにお寄りの際は見て上げてください。

工房は毬紋の5寸皿の水挽きに戻っています。丁寧に時間をかけて轆轤をしています。こんな天気の日は時間の流れがまったりとして、気分が集中でき、いい轆轤挽きができます。一年にこんな感じの日は数える程度です。こころも身体も自然とひとつになって、時間の流れを楽しんでいる状態は心地いいものです。そこはかと日本文化を感じ入る季節です。

秋の日差しはすべてを黄金色に染めています。先日化粧掛けした作品を天日干します。なんと長閑な光景でしょうか。陶芸の持つ力だと思います。


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この様な風景がいつまでも続く世で有りたいと願っています。一日一日の心をこめ作品にして行く幸せを感じるひと時です。
窯業地に行くと工場から多くの製品が天日干しに出されている光景に出会います。秋の日差しをいっぱい受け静かに乾いていく様は何とも微笑ましい心が癒されて参ります。乾いた作品を手に取ってみると、ほのぼのと暖かな温もりを感じます。作品におひさまの愛情がしみ込んでいます。一つの作品が出来るまでは長い時間手塩にかけ、多くの愛情が盛り込まれています。手にとってそのきめ細かな愛情が伝わる器でありたいと願っております。

登り窯と乾山

日本で本格的に食器を個人作家として作ったのは、乾山でしょう。もちろん瀬戸や唐津の窯業地では多くの食器を作っていました。が、懐石料理の器をデザインから製造したとなると、乾山が初めてでしょう。

 


乾山蓋物

日本で陶器の食器が一般的に使われ出したのは窯の大きな変革があったからです。織部という焼き物がありますが、カラフルで多くの技法が盛りもまれ、懐石や茶事によく使われています。この焼き物は今までの穴窯から登り窯に代ってできた焼き物です。登り窯は九州唐津あたりで発明された日本独特の窯です。この窯は大変熱効率が高く、また大量に焼くことが出来きます。それまでは山の斜面を掘って階段状に傾斜を付け蒲鉾の形に屋根を土で覆って窯を作っていました。半地下式穴窯などと云いますが、通称「蛇窯」などとも呼ばれています。それが全室を地上に上げ各部屋を独立させ、サマと言う連結坑で繋いだ窯が発明されました。それが皆さんのいう「登り窯」です。 この窯が出来て初めて大量にまた安価に焼き物が出来るようになりました。九州から瀬戸に伝搬され、各地方で特色のある焼き物が大量に作られ、出回りだしました。江戸では瀬戸物、また京都、大阪では唐津物といわれ雑器の代名詞のようにもなりました。 この窯が仁清によって瀬戸赤津から京都にもたらされました。仁清の陶技を継いだ乾山もまた鳴滝泉谷山にコンパクトな登り窯をつくり、多くの美しい焼き物を作りだしました。