巨匠 乾山

巨匠 乾山

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巨匠乾山について自分なりの考えや創作側の思いなどを書いてみたいと思います。昨日も出てきましたが、京焼の元祖的存在に野々村仁清が居ます。御室仁和寺の庇護の元、御庭焼として金森宗和の指導の元、唐物でも高麗物でもない、それまでになかった純日本趣味の陶器を創造しました。技法は多種に及んでいて、その一つひとつの作品は完成度が高く、優雅で緻密、雅の趣が存分に表現されています。また陶器に上絵を施したのは日本では仁清が初めてでしょう。中国には磁州窯系の宋赤絵、ベトナムの安南赤絵などがありますが五色を使い日本の色絵陶器を完成させたのは仁清が初めてでしょう。

緒方乾山

鳴滝泉谷で窯開きをしますが、そこは都の北西(乾の方角)に位置ところから窯名を乾山としました。乾山陶器は窯の移動もあって、大きく三期に分けられます。ひとつは鳴滝泉山の開窯期、元禄12年(1699)37歳より、13年間これを鳴滝時代と呼ばれています。正徳2年(1712)50歳で二条通寺町西入丁字屋町に移ります。この時代を二条乾山といいます。晩年、乾山は江戸に移り住みます。その理由は定かではないが、二条家とも非常に近い上野寛永寺輪王寺宮であった公寛法親王(こうかんほっしんのう)に随って、下向したのではないかとするせつが有力です。この時代、江戸入江に住み御用品を焼いたとされ、これを入江乾山といいます。

時代によって大きく陶器の趣が異なってきますが一貫して乾山陶器の特色は、今までにない文人趣味の、また非常に優れた才能あふれる日本文学の教養が結晶した得意稀な作品だということです。二条に移り乾山は当時流行していた懐石の器を斬新なデザインで創造していきますが、今の私共には到底計り知れない教養に裏打ちされてのデザインだと感じられます。

巨匠乾山翁をこれからも考えて参ります。

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