窯元日々雑感 徒然草 第百二八段

窯元日々雑感 徒然草 第百二八段

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なるみと読む徒然草

第百二十八段 人間の業と慈悲、そして静かな革命

令和8年10月19日(月曜日)曇り

水間焼 伏原窯 フシハラ円座

一、徒然草 第百二十八段 原文

雅房大納言は、才賢く、よき人にて、大将にもなさばやと思しける比、院の近習なる人、「ただ今、あさましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、憎く思しめして、日来の御気色も違ひ、昇進も給はざりけり。

さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便なれども、かかる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心は、いと尊き事なり。

大方、生ける物を殺し、傷め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。

万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。

彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。

すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず。

 

二、現代語訳

雅房大納言は、才能も知恵もあり、人柄も立派な方で、院も大将に取り立てたいとお考えになっていたころのことである。

院の側近の一人が、「ただ今、たいへん驚くべきことを見てしまいました」と申し上げた。

院が「何事か」とお尋ねになると、

「雅房卿が、鷹の餌にしようとして、生きている犬の足を切っておられるのを、垣根の穴から見てしまいました」

と申し上げた。

院はその行為をたいそう忌まわしく、憎らしく思われ、それまでのご様子も変わり、雅房卿は昇進することもなかった。

あれほどの人物が鷹を飼っていたということも意外であるが、生きた犬の足を切るというのは、まことに道理に外れた行為である。

もっとも、もしその話が虚言であったなら、気の毒なことである。

しかし、そのような話を聞いて憎まれた院のお心は、たいへん尊いものである。

そもそも、生き物を殺し、傷つけ、闘わせ、それを遊びとして楽しむ人は、獣のように残酷な者である。

あらゆる鳥や獣、小さな虫に至るまで、注意深くその様子を観察すると、子を思い、親を慕い、夫婦で連れ添い、嫉妬し、怒り、欲望を持ち、自分の身を大切にし、命を惜しんでいる。

理性によってその感情を抑えることができないため、その思いは人間以上に激しいこともある。

そのような生き物に苦しみを与え、命を奪うことが、どうして痛ましくないはずがあろうか。

すべての命あるものを見て、慈悲の心を持たない者は、人間としての道をわきまえた者とはいえないのである。

 

三、フシハラ円座 人間の業と慈悲

人倫という立場

今日の第百二十八段は、仏教の不殺生戒をめぐるお話である。

しかし、読み進めていくと、そう簡単には割り切れない。

人間は他の命をいただかなければ生きていけない。

殺生をしなければならない侍がいる。

その行為を咎める人がいる。

そして、その話を聞いて悲しむ兼好がいる。

私共は生命の中で生かせて頂いている。

それ以上もなく、それ以下でもない。

無闇な殺生は天に禁じられている。

兼好も人間の業を知っていたのであろう。しかし、ここではあえて「人倫」を持ち出し、一つの倫理的立場を提示したのである。

人を裁かず、己も裁かず

時代時代に正義があり、倫理がある。

日本でも先の大戦において、多くの尊い命が理不尽に失われてきた。

正義が人を救うこともあれば、正義の名のもとに人が殺されることもある。

倫理は人を裁く。

しかし、人間の業を考えるとき、誰が誰を裁けるのであろうか。

人を裁かず、己も裁かず。

ただ「嗚呼」というこころで天を仰ぐ。

すべての命が大きな慈悲の中に生かされている。

人間は、ただただ祈ることしかできないのかもしれない。

もちろん、それは残酷な行為を認めることではない。

行為を戒めながらも、人間そのものを裁くことから離れるのである。

孔子の礼と起立する自己

私が孔子の思想を学ぼうと思うのも、ここにある。

人間とは何か。

仁とは何か。

礼とは何か。

私なりに考える礼とは、自我を下げることである。

孔子は『論語』で、

「克己復礼為仁」

と説いた。

己に克ち、礼に復ることが仁である。

道を歩む者は、礼に始まり礼に終わる。

朝、目覚めたら、お天道様に挨拶する。

一日を礼から始めるのである。

自我を下げることは、自己を失うことではない。

むしろ、そこから自己が起立する。

自我を下げ、自己が起立する。

この感覚が大切なのである。

暮らしが立って来る。

礼とは、ジンカンとして生きるための教えなのであろう。

時代の機根と集団意識

最初に「時代でしょうね」と申し上げたのは、時代によって人々の機根が変わるからである。

その時代を生きる人々の集団意識が、時代そのものを形づくっていく。

兼好の時代には、兼好の時代の機根があった。

令和には令和の機根がある。

変わる変わる。

これからの時代は、「宇宙」という言葉が日常化してくるのではないだろうか。

人間の視野が大きく変わっていく。

国家や社会、個人という枠を越えて、宇宙という大きな生命の営みの中に自分を見いだす。

そこから新しい時代の意識が生まれてくるのであろう。

くらしの哲学、革命

かつて私は「くらしの哲学、革命」という言葉を掲げた。

しかし、今考える革命は、社会の変革を目的とするものではない。

静かに、宇宙に一礼する時代の「革」と「命」である。

自我を下げ、自己が起立する。

そして、暮らしが立って来る。

革命はどこか遠くにあるものではない。

朝、お天道様に挨拶をする。

今日も生きている。

その一日を大切に暮らす。

そこから、新しい時代が始まっていく。

こころが形を産む時代

これからは、物質を中心とした世界から、こころの働きを大切にする世界へと移っていくのではないだろうか。

こころが形を産む。

伏原窯が長年掲げてきた「こころを形に」という言葉が、ここにつながっている。

土がある。

人の手がある。

火がある。

そして、こころが働いて一つの器が生まれる。

その器が旅をして、料理人の手に渡り、料理が盛られ、人々の暮らしの中で生きていく。

こころが形を産み、形がまた人のこころを動かす。

これが「旅する器」であり、「なるみ」の働きでもある。

物質を否定するのではない。

物質の中に、こころの働きを見いだすのである。

 

四、結び 七百年を越えた怒りのエネルギー

昨日の第百二十七段では、わずか一行に秘められたエネルギーを感じた。

そして今日、兼好の怒りが七百年を越えて、私たちのこころを動かした。

怒りから始まった円座は、人間の業を考え、倫理を考え、慈悲を考え、孔子の礼へと進んだ。

そして、静かな革命へと至った。

兼好の怒りを否定するのではない。

その怒りもまた、時代を生きた人間のこころの働きなのである。

七百年を隔てて、私たちは兼好さんと同じ円座に座っている。

人を裁かず、己も裁かず。

自我を下げ、自己が起立する。

静かに宇宙に一礼する。

そこから一日の暮らしが立ち上がる。

物質からこころへ。

こころが形を産む時代へ。

変わる変わる。

これを「なるみ」と呼ぶのである。

今日も生きています。

喫茶去。

令和8年10月19日

水間焼 伏原窯

フシハラ円座

なるみと読む徒然草 第百二十八段 了

なるみと読む徒然草‐第一話

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