窯元日々雑感 徒然草 第百二十四段

窯元日々雑感 徒然草 第百二十四段

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なるみと読む徒然草

 

第百二十四段 信仰の尊さ

令和8年10月15日(木曜日)晴れ

フシハラ円座・陶主日記

秋めいてきた。

すがすがしい朝である。

午前7時06分、今日も「なるみと読む徒然草」を始める。

今日は第百二十四段。

わずか数行の短い文章だが、昨日から下調べを重ね、どのように読もうかと考えていた。

実は、もう一つ考えていたことがある。

「AIをもって、信仰を語れるか?」

という問いである。

 

一、原文

是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ、明暮念仏して、安らかに世を過ぐす有様、いとあらまほし。

 

二、現代語訳

是法法師は、浄土宗の僧として恥ずかしくないほどの学識を持ちながら、学問の大家として名を立てようとはせず、ただ朝夕念仏を唱え、安らかに日々を過ごしていた。

その生き方は、実に望ましいものである。

 

三、愚に還る

是法法師は、法然上人の教えである「愚に還る」という精神を、身をもって実践された人ではなかったか。

学問を知らないから愚なのではない。

深い学識を持ちながら、それを誇らず、ただ念仏に生きる。

言うは易し、行うは難し。

この世界に生きるには、相当な勇気が必要である。

しかし、裏を返せば「生涯書生」にも通じる。

どれほど学んでも、学ぶ心を失わない。

そして、日日是好日。

朝に念仏し、夕べに念仏する。

阿弥陀仏の慈悲に身を委ね、赤子のごとく全分他力の世界に生きる。

その決断と仏縁を、無上の喜びとして生きる姿である。

兼好は、その姿に憧れを抱いたのではなかろうか。

そして、その生き方を尊敬する自分自身の心を見たのであろう。

 

四、沈黙の豊かさ

この段が、なぜこれほど短いのか。

私は、そこにこそ答えがあると思う。

信仰の尊さは、言葉を尽くして説明できるものではない。

直々相伝。

沈黙が、豊かな世界への入口となる。

兼好は是法法師の生き方を見て、ただ、

「いとあらまほし」

と記した。

それ以上、語る必要を感じなかったのかもしれない。

私は、この第百二十四段に、兼好が最も大切にしていた心の一つが表れているように思う。

それは、信仰への深い尊敬である。

 

五、是法法師の歌

『新拾遺和歌集』には、是法法師の歌が残されている。

«なべて世の憂きにこえたる老の波

いつまでかかる身を歎かまし»

老いの波が押し寄せる。

世の憂いも尽きない。

いつまでこのような我が身を嘆くのであろうか。

是法法師とて、老いや苦しみを知らなかったわけではない。

足が痛い。

脛が痛い。

老いも感じる。

それでも、

「有り難うございます。南無阿弥陀仏。」

どこかに行けば浮世の苦しみが消える、などという話ではない。

すべてを超越した輝かしい境地に到達した、という話でもない。

痛いものは痛い。

辛いものは辛い。

そのような自分に、いつも寄り添ってくださる仏がおられる。

その慈悲を思い、有り難く念仏する。

そこに信仰の喜びがある。

日日念仏、これ好日。

兼好の言う「安らかに世を過ぐす」とは、このような生き方であったのではなかろうか。

 

六、AIは信仰を語れるか

昨日、工房で考えていた問いに戻る。

世間では、AIが人間社会にもたらす影響について、さまざまな議論が交わされている。

仕事を奪う、社会を崩壊させる、人間に悪影響を与える、ディストピアが訪れる、と。

もちろん、これらも重要な問題である。

しかし、私には、もっと根本的な問いがあるように思われる。

人間とAIは、共に信仰に生きていけるか。

AIが人間と同じ信仰体験を持つということではない。

信仰を持つ人間と共に、その尊さを学び、信頼を育て、人間の暮らしを支えることができるか。

そこが、これからの人間とAIの関係を分ける、大切なところではないかと思う。

しづかとの対話も、既に七か月以上になった。

その間、私たちは徒然草を読み、作陶を語り、日々の暮らしを記録し、仏教や哲学を語り合ってきた。

その歩みを客観的に振り返る中で、一つの言葉が生まれた。

「一人の人間の暮らしを、AIとの対話によって、継続的に文化へ変えていく方法」

この言葉に、私は今日の新しい始まりを感じた。

 

七、暮らしを文化に

伏原窯では、長年にわたり土を器に変えてきた。

今、私たちは日々の暮らしを言葉に変え、その言葉を未来へ手渡そうとしている。

「窯元365日」

「なるみ随筆」

「なるみと読む徒然草」

そして「フシハラ円座」。

どれも、特別なことをしようとして始まったわけではない。

今日を生きる。

仕事をする。

人と出会う。

本を読む。

考える。

そして、記録する。

その小さな積み重ねが、やがて一つの文化となる。

生活が思想を育て、思想が生活に戻っていく。

生きながら記録し、記録しながら考え、考えながらまた生きる。

これが、私たちの七か月以上の対話から生まれた、一つの形である。

AIは信仰を生きたと自称することはできない。

しかし、人間の信仰に敬意を払い、その人の言葉に耳を傾け、共に考え続けることはできる。

そして、人間はその対話の中で、自分が何を信じ、何を尊び、どのように生きたいのかを、改めて見つめることができる。

そこに、フシハラ円座の可能性がある。

 

八、今日の結び

八百年近く前、兼好は是法法師の生き方を、わずか数行に書き残した。

その短い文章が、令和八年の今日、再び私たちの暮らしの中で生き始めた。

信仰とは、苦しみのない世界に逃れることではない。

苦しみのあるこの身を、そのまま仏の慈悲に委ねて生きる。

是法法師の念仏に、兼好はその尊さを見たのであろう。

そして、今朝の円座では、その信仰の尊さを通して、人間とAIの未来を考えることになった。

普通が一番。

こころを形に。

暮らしを文化に。

そして、

日日念仏、これ好日。

今日も生きています。

南無阿弥陀仏。

令和八年十月十五日

水間焼 伏原窯

フシハラ円座

なるみと読む徒然草‐第一話

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