なるみと読む徒然草
第百二十三段 無益とは何か
令和8年10月14日(水曜日)曇り
午前7時05分。
昨夜から降り出した雨も小康状態となった。
秋の静かな朝、今日もフシハラ円座を始める。
【原文】
無益のことをなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人とも言ふべし。
国のため、君のために、止むことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇、幾ばくならず。
思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。
人間の大事、この三つには過ぎず。
饑ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過ぐすを楽しびとす。
ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁ひ忍び難し。医療を忘るべからず。
薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。
この四つの外を求め営むを奢りとす。
四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。
【現代語訳】
役に立たないことをして時間を費やすのは、愚かなこと、道理に外れたことと言うべきである。
国のため、主君のために、どうしてもしなければならない仕事は多い。その合間に残された時間は、決して多くない。
人間が生きていくために欠かせないものを考えてみよう。
第一に食べ物、第二に着る物、第三に住む所である。
人間にとって大切なものは、この三つに尽きる。
飢えることなく、寒さに苦しまず、風雨をしのぎ、静かに暮らせることを楽しみとする。
ただし、人は誰でも病気になる。病気の苦しみは耐え難いものであるから、医療も忘れてはならない。
この三つに薬を加えた四つが得られないことを、貧しいという。
この四つ以外のものを求め続けることを、贅沢という。
四つのことをつつましく整えて暮らすならば、誰が不足を感じるだろうか。
【なるみと読む徒然草】
無益とは何か。逆に、益とは何か。
今朝は、この問いから始まった。
兼好居士は出家の人である。
『徒然草』の根底に流れているのは佛道の世界観であり、単なる処世術や生活の知恵を説いているのではない。
私たちは、七百年近く前に生きた兼好居士を、佛道の大先輩として仰ぎ、その生きた世界を共有させて頂いている。
さて、無益とは何か。
我欲のために時を費やすことではないだろうか。
例えば、お念仏ひとつをとっても、我が浄土往生のために称える念仏には、自力のはからいがある。
親鸞聖人も、その自力の心をそのまま肯定されたわけではない。
人間の「我」は、どこまでもついてくる。
兼好居士は、そんな私たちに語りかけているように思う。
修行を怠るな。我の敵は我にあり。
衣食住は質素であれ。
しかし、粗末にしすぎるのもよくない。
健康に気をつけ、病の備えもしておくことだ。
頂いた我が身を粗末にしてはならない。
そして、頂いた時間を我が身だけのために費やすのではなく、世間に生きる皆さんのためにも使わせて頂こう。
これが、ささやかな佛道に生きる私の感想である。
【脚下照顧】
脚下照顧。
自らの足元を照らし、今の自分を省みる。
佛道は、日々の暮らしと別のところにあるのではない。
茶碗を作り、食事を頂き、人と語らい、仕事をする。
その日々の営みを大切にする。
佛と共に生きる。
ただ、それだけのことである。
母の言葉に「普通が一番」がある。
今日の兼好居士の言葉も、そこへ帰ってくるように思う。
頂いた身を粗末にせず、頂いた時を独り占めにせず。
今日もまた、佛道を歩む。
日日是好日。
令和8年10月14日
水間焼 伏原窯
フシハラ円座
なるみと読む徒然草 第百二十三段
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